第四章 神は倒れ、勇者が登場する

第17話 第四章-1「急変」

 その日――というのは、何のことはない真仁がカラシノの家を訪れた翌日の月曜日のことではある。


 その日の昼休み、真仁の頭はカラシノの膝の上にあった。

 人という生き物の限界に挑戦するかのような苦悶の表情を浮かべて。


 この失礼な表情は、寝る前に吸引したコンデンスミルクの影響であるとカラシノは信じていた。自分の膝が不快であるなどとは断じて認められない。


 が、それほどに真仁がカロリーを必要としている責任は少しばかり自分にもある、とカラシノは珍しく反省していた。昨日、着衣のままの真仁をプールに蹴り込んだのは色んな意味で失敗だった、と。


 カラシノは昨日初めて気絶した人間を見たからだ。


 二人がいるのは、いつものクヌギの木の下。天頂にある太陽は少ししか二人に木陰を与えてくれなかったが、そこそこ快適。少しばかり湿り気の多い夏の風も、心地よく感じられた。


 午後の授業が始まるまでは、あと二十分ほど。正直もう足に痺れが来ているのだが、今日ばかりはそのままにしておいてやろうと、カラシノは覚悟を決めた。


 その時である。カラシノの眼に場違いな中世風の出で立ちの男が映ったのは。黒にも藍にも見える深い色の髪。長い前髪の下に見える瞳の色は琥珀色。複雑な文様を織り込んだ緋色の上下揃いの服を着込んでおり、その上に銀で縁取りされたマント――というかインバネスの様な外套を羽織っていた。


 見るからに暑苦しい格好だったが、その姿に時々ノイズが走るということは、つまり暑さを感じない魂だけの存在――亡命者なのだろう。


 カラシノは久しぶりに来たな、と思いながらも今までの亡命者とは違う点を見つめていた。その男の足下には実に大きな荷物があったのだ。もしかすると、これは……


「失礼、我が師メジムラハーメイトンはこちらに?」


 男が話しかけてきた。よくよく見れば随分整った顔立ちをしている。それにかなり若い。こちらの世界の基準に合わせれば大学生ぐらいだろうか。


「うん、この子」


 カラシノがそう答えると、男は怪訝そうな表情浮かべた。


「どうかした?」

「私の姿が見えているのですから、あなたが我が師を仮住まいさせておられるのではないのですか?」


 カラシノは男の疑問を理解した。が、それに対して的確な答えを返せる自信がない。

 しばらく首を捻った後、真仁が管理を自分に任せたのだ、とかなりざっくりとした説明を試みた。

 男はなおも不思議そうな表情を浮かべていたが、フッとその表情を和らげ、


「それで私は師の下に赴くことは可能なのでしょうか?」


 と、一番肝心なことを尋ねてきた。


「師からは大事な品を託されておりまして、一刻も早くお渡ししたいのです」


 男はさらに言葉を重ねてくる。

 となると、足下の荷物はきっと真仁が言っていた頭の中から皆を出すための道具なのだろうと、カラシノは判断した。


「えっと……」


 真仁を起こさなければならないとカラシノは考えたが、よくよく考えると真仁の意識の有無はあまり関係がないような気がする。要は自分の認証が必要なだけだ。


 カラシノは男の顔をじっと見つめた。男はそれに気付いて、ニコと微笑む。やはりなかなかの美男子だ。カラシノはしばらくの逡巡の後、


「私が手続きをすることになってるの。手を取ってくれる? あと名前も教えて」


 男の笑顔にほだされたのと、眉根を寄せて、歯ぎしりまでして眠る真仁を起こすのは忍びないという事情も重なり、カラシノは自分だけで入国手続きを終えて、事後報告することにした。それに真仁が待ち望んでいた道具が到着したのだ。少し驚かせてやりたいという、いたずら心もある。


 だが、それに対して男はすぐに反応しなかった。カラシノの伸ばした手に自分の手を重ねるように差し出したところまでは行ったのだが、名前を言わない。

 カラシノが不思議に思って首を傾げると、


「…………レフ、と申します」

「へぇ、あなたは短いんだね。私はカラシノ。いらっしゃいレフ。マジン界へようこそ」


 カラシノがそう告げた瞬間、レフと名乗った男の姿はいつもの通りかき消えた。






 カラシノはもちろん、このことを真仁に告げようとした。が、巡り合わせというものはあるもので、真仁の次の授業は体育で、チャイムの鳴る五分前にきっちりと目を覚ました真仁は、カラシノの呼びかけを適当にあしらって、さっさと教室に戻ってしまった。


 膝まで貸してやったのに、何という態度だろう。さすがにコミュニケーション能力の欠如を指摘されても動じない男だ。


 そのカラシノの五時間目の授業は自習だった。本来は地理の授業だったのだが、期末までの範囲はすでに終わっていたので、自習になったという次第だ。テスト前ということで、周囲は意外にも真面目に勉強している者が多い。もっとも地理の教科書がほとんど開かれていないのはご愛敬だ。


「カラシノ、ちょっといい?」


 と形だけは尋ねながらも、有無をいわせぬ眼差しと共に妙子がやってきた。そう言えば、色々と言いたいことと聞きたいことがあったのだ、とカラシノは妙子の顔を見て思い出した。


「良かった妙子。あのね、マジン君があなたと仲良くするようにってうるさいのよ。だから仲良くしましょ」

「は?」

「それから、マジン君にロマンティックがどうとか言ったみたいね。ダメだよ私の楽しみ取っちゃ」


 完全に機先を制せられた形になった妙子は、しばらくカラシノを睨みつけたまま、口をモゴモゴと動かしていたが、やがて机の横にしゃがみ込むと、


「……あいつがそうなの?」

「そうだったらいいなとは思ってる。もう全然浮かれるって事がないのよ。絶対に自分が良い目に会うことはないって確信してるわね、マジン君は」

「でも、毎日晩御飯を……」


「あれはね、説明するのが面倒だからしないけど御飯以上に酷い目に遭ってるから。で、それには私もちょっと責任があるわけだ。だからプラマイゼロ。そのご飯だって私の方から言い出したんだよ。あの男、ほっとくと栄養補給に練乳一気飲みするんだから」


 そう言うと妙子は露骨に顔をしかめた。先ほどの膝の上の真仁と同じような表情だ。


「そんなのが、私と妙子の友情を心配してくれてるんだよ。ありがたく思わなきゃ」

「いや、そこのとこに関連性は全然無いから」


 即座に突っ込んだ妙子の表情が、ふっと和らいだものになった。


「わかった。どうも私が先走りすぎたみたい。あとで謝っておくわ」

「まぁ、心配してくれてたのはわかるよ。ありがとう」


 あっけらかんと礼を言うカラシノに、妙子はふぅ、とため息をついた。


「……で、ロマンチックなの?」

「そこのところは、未だ検証中。ただ、それを確かめてる時間はあまりないかも」

「どういうこと?」


「付き合っているっていう状態を維持する必要が無くなるかも知れないから。何しろロマンだの情緒を否定することに関してはとびっきりの優等生だからね」

「悪いけど、言ってることほとんどわかんないんだけど」


 妙子がそう返すと、カラシノは少し首を捻って、


「一度ウチに来ない? マジン君が良いと言えば、私も事情は説明しておきたいし。マジン君も多分OKするよ」

「う~~~ん」


 そこで今度は妙子が首を捻った。それからしばらく返事がない。


 その間にカラシノは何とはなしに窓の外を見た。すると、他のクラスの体育が始まったところのようだ。その中に真仁の姿も見える。


(そう言えば体育って言ってたな)


 出てきた男子一同は、そのままランニングを始める。が、すぐにその動きが止まる。何事かと思って目を凝らすと、一人の男子がまっすぐに倒れていた。


「マジン君!!」


 カラシノは叫び、教室を飛び出した。

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