第8話 第一章-3「アクセルベタ踏みで連れて行って」

「驚かないの?」


 逆に不審そうにカラシノが尋ねてくる。


「僕は車の免許という物が“公道”を走るために必要な物だと知っているんだ。もっとも警察にばれたところで、スポンサーに手を出そうとは思わないかも知れないがな」

「おお~、父さんと同じことを言ってる」


 そうか。こんな娘でも父親はいるだろうな、と真仁が言い訳のしようもないほど失礼なことを考えている内に、目指す駐車場に着いたらしい。カラシノは鍵をチャラチャラと鳴らしながら、一台の小さな黒い車の横に立った。


「……軽だな」


 出てくるならもっと大きな高級車だろうと踏んでいた真仁は意表を突かれた。


 カラシノは公立高校の教師に手が回せて、警察にまで圧力をかけられる事は確定している。この二つの条件を満たす一番簡単な方法はカラシノ、あるいはカラシノ家が途方もない資産家である、ということだ。


 金で暴力組織云々、という安めの話ではなく、つまりはカラシノ家が納めている税金がこの地方の予算に欠かせないという切実な問題があるのだろう。文字通り、カラシノは西狭山一帯のスポンサーであるということだ。


 だから使っている車ともなれば、それ相応の高級車を所有していると真仁は考えたわけだ。だが、カラシノはある意味真仁の想像を超えた質問を返してきた。


「“ケイ”って、何?」


 ドアを開けながら、カラシノが尋ねてくる。真仁は一瞬、カラシノが何を言っているのか理解できなかった。カラシノに促されて助手席のシートに腰をかけたところで、やっと返事をすることが出来た。


「……この車のことだ。軽自動車という法律上の車の分類方法がある。で、一番の違いはぶっちゃけると安いんだ。車自体の値段やかかる税金も」

「へ~、そうなんだ」

「何で知らない?」


「あっはっはっは、別にお金に困ってないのに値段なんか気にしないよ」

「ちょ、ちょっと待ってくれ……」

「待つのは良いけどエンジンかけるわよ。クーラー入れないと暑いから――あ、見たことのない顔」


 カルルルル……と軽の名に相応しい、軽い音が響きエンジンがかかる。その音をバックに、真仁は生まれて初めての経験をしていた。


 何をどう言えばいいのか、完全に見失っていたのだ。


 突き詰めると、自分はカラシノに文句を言いたい。しかし、カラシノの言っていることに真仁は問題を見つけられなかった。そうカラシノは論理的に正しいのだ。


「カラシノ。君は正しい」


 真仁は潔く認めた。カラシノの資金力がどれほどのものかはわからないが、普通の金持ちでも車を数台も所有している。ましてや警察に影響を与えることの出来るほどの富豪ともなれば、自分の知る常識から外れたところがあっても仕方がない。


 だが、気になる点はあった。


「この車を選んだのは君じゃないんだな? この車にした理由は聞いたか?」

「ああ、それは私がアクセルをベタ踏み……だったっけ? それをするクセがあるからだって。何? その変な顔」

「覚えておけ。これは心底驚いている時の顔だ。僕自身だって見たこともないような顔を特別に見せてやったんだから、絶対にベタ踏みするなよ。君が豆腐屋の息子でもご免被る」






 それ以降も、くどいほどに「ベタ踏みはするな」と繰り返したせいか、カラシノの運転は今のところ安全運転そのものだった。そして運転自体も実際慣れたものだったのだ。


 発車も停車もまったく淀みがない。しかし、当のカラシノは何かにつけて「遅い~、遅い~」と愚痴をこぼし続けていた。


 車は市街地を抜けて、市の北にある山中へと分け入っている。少し前から他の車をまったく見なくなっていた。多分もう私有地に入っているのだろうと真仁はあたりをつける。


「少し質問を続けても良いか、カラシノ」


 スピードに不満を募らせるカラシノの気をそらせるためにも、真仁は会話を試みることにした。もっとも、それだけでなく実際に聞きたいこともあったのも事実ではある。


「いいわよ。出来るだけおかしな事を訊いてね」

「残念ながら、僕はごくごく常識的な人間を自認している――頭の中を除いてな。で、なぜそんな常識的な人間の通う高校にいる? 金持ちはそれ用の学校というのがあるんだろう?」


 フィクションの世界ではままある設定だ。信じられないほど広大な敷地に、欧風な外観のおおよそ機能的でない校舎。生徒同士の挨拶は「ごきげんよう」といった具合の学校だ。


 それがそのままあるとは言わないが、類する学校は何処かにある可能性は高い。


「ああ、小金持ちが集まる学校ね。ああいうところに行ってもしょうがないの私の場合」

「小金持ちとは変な言葉だな。しかし、そういうところで何かしらの関係を築くのが……」

「“本当の強者とは、そういうこざかしい理屈とはまったく関係のない場所に存在する”」


 カラシノが突然低めの声でそう告げた。真仁は瞬時にその台詞の出典に思い至る。


「『天』より、赤木しげるが西の首領、原田克美の戦略について述べた言葉だな。つまり君の資金力は赤木しげるの才に匹敵すると?」

「結構、漫画も読むんだね」


「フィクションを楽しむ視点で考えた場合、小説と漫画を区別する理屈は存在しないだろう。では、学歴を得るためと考えれば?」

「学歴が良いとどうなるわけ?」

「将来的に生活の保障が――いや、わかった」


 学歴が無くても、有り余っている経済力がカラシノの未来を保証している。つまり、群れたり肩書きを欲しがるのは、半端な金持ちのやる事というわけか。筋は通っているように思えるが……


「だが、何というかな……楽なんじゃないか? そういう学校に通っていた方が」


 そう真仁が尋ねると、カラシノから答えが返ってこない。今までは前に固定していた視線をカラシノの方へと向けてみると、特に怒っている風でもなく、あろうことか視線を上にさまよわせて、考え事の真っ最中だった。


「考えるなら、せめて前を向いてくれ。あとスピードが乗りすぎている。アクセルをベタ踏みしたりはしてないだろうな?」


 道は山道に入った辺りから、ずっと緩やかな左カーブだ。今までアクセルベタ踏み主義のカラシノが無事だった理由が、何となくわかる道筋である。

 そのカラシノは返事をする代わりに、突然真仁に尋ねてきた。


「浅野内匠頭たくみのかみについてどう思う?」


 それは誰だ、と聞き返すほどに真仁の知識は欠落していない。名前が出た瞬間には、赤穂事件、いわゆる忠臣蔵の話の発端を作った人物、ぐらいのデータは脳裏に浮かんでいた。


 刀を抜いてはいけない江戸城内の松の廊下で、吉良上野介に斬りかかったと伝わっていて、そういう行為に内匠頭が及んだのは、よほど上野介にいじめられていたに違いない。


 ――などと言うのが風説というか、そういうことになっている。


 何しろ忠臣蔵の本題は、結果として切腹を命じられた内匠頭の仇討ちだ。内匠頭に非があっては話がおかしな具合になる。


 もちろん、内匠頭に非が無い、などという話を素直に信じるほどに真仁は素直ではない。


 真仁は思う――


 断定するが、浅野内匠頭は完全なバカだ。カラシノへの答えもそれに準ずる事になるだろう。ただ、問題はカラシノがどうしてそういうことを自分に言わせたいのか? だ。


 真仁はわかり切った答えを口にするのを保留して、もう一度思考を巡らせる。車窓を流れる景色に会わせて、膝の上の指が無意識にリズムを取っていた。カラシノは催促することなく律儀に返事を待ってくれているらしい。


 ――試されているのか?


 真仁は漠然とそう感じたが、同時に答えには辿り着いていた。

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