第7話 第二章-2「世界は狂いで満ちている」
翌朝、真仁はカラシノに校門で待ち伏せされた。
「素直に引き下がるとは思っていなかったが、一日で逆襲体勢を整えるとはな」
カラシノを見るなり、真仁がそう言ってのけたのはちゃんと理由がある。何しろカラシノは校門のど真ん中で、腰に手を当てて仁王立ちしていたのだから。ボサボサの髪がマントに見えなくもない。
古今東西、どこに出しても恥ずかしくない挑戦者の構えである。
「昨日はさすがに頭に来たわ。でも、マジン君の言うことも、もっともだと思ったの」
「もっともと思った? なら、僕への呼びかけを……」
「そこは“もっとも”と思ってないの。第一、付き合っているのなら名前とか愛称で呼んでもそれは自然な流れよ。私がもっともだ思ったのは『いい加減な城を造るのは良くない』ってところ」
この辺りで、登校してくる他の生徒達の目がだいぶん気になり始める真仁。痴話喧嘩と思われるのも業腹だが、それ以上にうかうかと口にしてはいけない単語をカラシノが考慮しているのか心配になったからだ。
だが、そんな真仁の危惧を見透かしたかのように、カラシノの口上はそこで止まり、代わりに分厚いレポート用紙の束を真仁に差し出した。不審に思いながらもパラリと目を通すと、きっちりと印字され読みやすい形式が整えられている何かの書面だった。
「これ、中世の城郭築城技術の論文。放課後までに目を通しておいて。元はフランス語だったけど、ちゃんと日本語に訳してあるから大丈夫」
言いながらカラシノは真仁から離れて校舎へと向かう。その背中を目で追う真仁。空には灰色の雲がたれ込めていた。天気予報では「曇り」だったが、午後には降り出すかも知れない。
「あ、それと今日の放課後は私の家に来てもらうわよ。だから、それまでにその論文全部読んでおいて。手は打って置いておいたから、授業中も気にしないでいい」
いきなり振り返ったカラシノが、指を突きつけながらさらに要求してくる。しかも、容易にうなずけないおまけまで付いていた。
「手って……」
聞き返そうとした真仁は、周囲に怒気が立ちこめるのを感じた。原因を考えてすぐに思い至る。
本質はどうあれ、建前上今現在の自分は『付き合っている女の子から、自宅に誘われた男の子』であるのだ。相手が学校内でさほど人気のないカラシノであったとしても、十分の羨望と嫉妬の的にはなるだろう。
常識としてそれは理解できる。
これでカラシノが『今日は両親がいない』などと、追加攻撃を繰り出してきたら、被害は今日一日だけではなく、ここ一週間のレベルに拡大するところだった。
「私一人暮らしだから、気を遣わなくていいわよ」
――なるほど、これは昨日の僕の言動に対する嫌がらせだな。
そう真仁が理解したところで、周囲の怒気が殺気へと変わった。
周囲の雑音を遮断するのに、カラシノがくれた論文は役に立った。人の世、あるいは日本だけかも知れないが、物を読んでいる相手には人間なかなか話しかけづらいものだ。特に自分が下らないことをしているという自覚がある時には。
「よーよー、マサくん。お安くないじゃん!」
知識が致命的に欠如している人間には、読書のバリアは通じない。真仁は視線だけを動かして昭彦の姿を確認し、対抗すべき言葉を繰り出した。
「君には感謝している。だが、僕にはこれを読めという怖い彼女がいるんだ。恐らくは読まないと今日はこれで終わりになる。だからこれ以上はちょっかいを出さずに話は明日以降にしてくれ。その方が君はもっと満足できるんじゃないのか? わかるだろう?」
不道徳の教師になった気分だ。だが昭彦への効果は抜群だった。
「ああ、わかったよマサくん。何なら他の奴にも言っておこうか」
「頼むから放っておいてくれ。そして楽しみは独占した方が良いぞ」
と言った後の事を、真仁は覚えていない。カラシノのくれた論文が、予想以上に面白かったからだ。真仁の周囲から事象が消滅した。
――身体を揺すられた様な気がして、ふと顔を上げてみると目の前にカラシノの顔があった。何だか怒っているように見える。だが、それで恐れ入る真仁ではない。
「邪魔をするな。読めと言ったのは君だぞ。あと二、三枚で済むから……」
「もう放課後なの。どのぐらい入り込んでるのよ」
「む……」
言われて周りを見回してみると、確かにクラスメイトの半分以上が消え去り、残りは帰宅準備をしている。どうやら放課後ということは間違いないようだ。
「で、何か用か?」
「えーと、殴って良い?」
実際に拳を握り始めたカラシノを見て、真仁は懸命に心を地平に引っ張り降ろした。
「……ああ、そうだった。君の家に誘われてたんだったな。予定に変更は――ないようだな」
「それ全部読んだんでしょ。私の家に来てからも読んでもらう予定だったんだけど、手間が省けて良かったわ。じゃ、行きましょう」
そう言って教室から出て行くカラシノのあとに付いて、真仁は鞄を取る。教科書も何も出していなかったことに気付き、そして本当に教師達に無視されていたことにも気付いた。
つまりカラシノの言っていたことは本当だった……と言うことになる。
決して大きいとは言えないカラシノの背中を見下ろしながら、真仁は急速に意識が覚醒していくのを感じた。
一日で用意された論文。それも本ではなくただの紙にプリントされているという事は、今まで日本語に訳されたことはなく、訳されたのは昨日の夜間。
さらに、学校にも何かしら手を打って、それが成功している。そして、西狭山高校は公立校だ。
「そんなに面白かったの、あの論文」
「ああ。昨日まで酷い本を読んでいた分、さらに面白かった。やはり最初から最後まで首尾一貫している文章は面白いな」
言いながらも、今日起こった現象について考え続ける真仁。恐らくは一つの理屈ですべてが説明できることに真仁は思い至っていた。
ただ、それを受け入れるとなると世界は随分前から狂っていたことになる。
「知識欲が満たされるって奴だね。君は特にその欲望が強いみたいだから」
「そうだな。それは否定しない。結局、本を読むことだけはやめられないのは、それが原因だろう。ただ小説の嘘も好ましいと思うのはどういう心理なのかな」
言ってから、余計なことを言ってしまったと後悔した。おかしな考えにとりつかれて、唇と舌の管理が曖昧になっている。
「読むこともやめたいの?」
「ああ」
管理できないのなら、休業してしまうに限る。損失を出すよりマシだ。
有り難いことに、カラシノはそれ以上話しかけてこなかった。真仁も何も言わずカラシノの背中に従って、下駄箱で靴を履き替え校門を出る。空模様は踏ん張りを見せたらしく、予報通りに曇りのまま、今日は終わりそうだった。
「あ、こっちね」
と言いながら、カラシノは真仁の家とは反対方向に足を向けた。それと同時に鞄の中からキーホルダーを引っ張り出した。
「家は、ここから近いのか?」
「え? 全然。これは私の車の鍵」
なるほど、やはり世界は狂っていたのか。真仁は粛々とその事実を受け入れることにした。
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