第9話「由里と陽葵」
「あっ、お兄ちゃーん!」
家で荷物を置くついでに着替えを済ませ、芙実(ふみ)を迎えに来た。
外で遊んでいた芙美は、僕を見つけると手を振り大きな声で僕を呼ぶ。
それに僕も手を振って応えながら、芙実の近くにいた先生に会釈した。
「こんにちは、芙実の迎えに来ました。」
「はい、お疲れ様です。芙実ちゃん、お迎えに来てくれたから、手洗ってこよっか。」
「はーい!ちょっと待っててぇ!」
先生に促されて、手を洗いに行く芙実。
その間に先生が、今日の芙実のことを教えてくれる。
「芙実ちゃん、今日お兄さんの絵を描いたんですよ。とても上手に描けてるんで、見てあげて下さいね。」
「それは、楽しみですね。芙実は絵を描くのが好きですけど、他の子とも話せてますか?」
「えぇ、確かに活発な方ではないですけど、1番仲の良いまりちゃんっていう本好きの子とは、よくおしゃべりしてます。それに、お誘いがあれば今みたいに外でも遊んでますから、大丈夫ですよ。」
「そうですか、安心しました。」
先生はもちろん僕と芙実が兄妹ではなく、姪と叔父の関係なのは知っている。
だが、僕を叔父さんとは言い難いのだろう、ここでは『芙実ちゃんのお兄さん』と呼ばれていた。
芙実は、人見知りが激しく大人しい性格をしているので、仲が良い友達がいるというのは結構安心できた。
子供らしく外遊びも好きだし、僕みたいな慣れた人には結構ワガママも言うが、幼稚園児の子供社会を先生から見て、上手く生活できているのなら大丈夫だろう。
「お兄ちゃん、行くよー?」
いつの間にか、帰りの準備を済ませた芙実が出てきて僕の隣に並んだ。
「芙実、早かったね。もうみんなとバイバイしてきた?」
「うん。また明日ねって、してきた!でも、まりちゃんは明日お休みなんだって〜。」
「そっか、じゃあまた来週になっちゃうね。」
「あーっ、そうだね!ちょっと行ってくる!」
「あっ、芙実!」
すぐに踵を返した芙実は僕が止める声が聞こえていないのか、教室に駆けていった。
「まったく…。」
芙実の落ち着きのなさに、呆れた声を漏らすと、先生がクスクス笑った。
「芙実ちゃん、お兄さんと帰れるからはしゃいじゃってるんですよ。」
「そうなんですかね?」
僕としては、その違いはわからない。
「ええ、だってお母さんが来た時はもっと大人しいですし。…それに、今日描いた絵の人と結婚するって言ってましたよ?」
「それって……。」
ちょっとからかうように笑う先生に、恥ずかしくって最後まで確認することは出来なかった。
「それじゃ、さようなら。」
「先生さよーなら!」
「はい、さようなら。」
戻って来た芙実と、先生に挨拶して帰る。
「芙実、車が来たら危ないから手繋ごう?」
「うん、いいよー。…お兄ちゃん、芙実お菓子食べたい。」
「お菓子かぁ…。じゃあ、お買い物して帰るから1つだけ買ってあげる。」
「ホント?やったぁ。」
「でも、小さいやつね。」
「えー、芙実大っきいのがいい!」
「今日のご飯はハンバーグだけど、大っきいのにするなら変えちゃうよ?」
「や、やだっ!ハンバーグの方がいい!」
いつも通りの、なんでもない会話を芙実としながら帰る。
でも、僕はずっとあの2人の事が気になっていた。
「…お兄ちゃん?」
「ん、どうした?」
ふと、会話の切れ目で芙実がちょっと不安そうに僕を見上げた。
「んー…、えとね、お兄ちゃん何かあった?」
「え?」
しまった。子供はこういう変化には敏感だ。
いつも通りにしているつもりでも、なにかを察した芙実に心配されてしまう。
「…ううん、なんでもないよ。でも、ちょっとお腹空いちゃったかな。」
「えー、まだ早いよ?」
「そうだね、頑張って我慢するよ。」
なんとか、適当な理由をつけて誤魔化す。
(…由里ちゃん、がんばって。)
まだ塚口さんと話しているのか、すでに解決しているのかはわからないが、心の中で由里ちゃんを応援しておいた。
「……陽葵。」
「由里…。」
教室に残っている人数が減ったのを見計らって、由里は陽葵(ひまり)に声を掛けた。
陽葵もタイミングを探していたのか、何をするでもなく教室に残っていたので話し合うつもりはあるはずだと考えていた。
「由里。まだ人も残ってるし、移動しよっか。」
「…うん。」
重い空気のまま荷物を持ち、陽葵が由里を誘う。
由里もそれに了承して、着いて行った。
そうして2人は校舎裏までやってきた。
部活時間の今、いつも深月と会っている音楽準備室は吹奏楽部が使っているかも知れないし、人目につかないところを選ぶと、ここになった。
「ここで、いい?」
「……うん。」
「「……。」」
どっちから、話をはじめるか…。
お互い、言葉を探っているような空気が流れる。
「……陽葵。」
「…え?う、うん?」
それでも陽葵にとっては、由里から口を開いたのはかなり意外な事だった。
緊張の上に、明らかに動揺する。
そこに由里がストレートな気持ちを話した。
「……陽葵には、私が深月を好きなことは言ってた。なのに、なんで深月をあんな風に言ったの?」
『あんたなんか』と、陽葵は深月をそう言った。
由里はその理由を聞かないと、どうしても陽葵を許せる気がしない。
由里にとって陽葵はそれなりに信用している友人だったし、深月には仲直りするように言われたが、その内容如何では陽葵との関係を切ることも由里は考えていた。
「え、えっと、それは……。」
対して、陽葵は言葉を詰まらせる。
なぜなら完全に怒りと勢いで、深月を罵った言葉だったから…。
その様子に、由里はスッと目を細める。
「……深月は、陽葵が誤解してるって言ってた。」
由里は、深月が自分を止める時に言っていたその言葉に引っかかっていた。
しかし、理由もなく自分の大切な深月を陽葵が罵ったのなら、それも関係ない。
「…でもそんなことより、陽葵が私と深月の邪魔になるなら、もう一緒にはいられない。」
「そ、そんなっ!?ちょっと待って!」
由里を助けようとしたはずが、どうしてこうなったのか。
混乱した頭で必死に考え、陽葵も深月や由里が言っている勘違いとは何か、疑問を抱く。
「由里、私の話も聞いて?由里から武庫…くんが好きだってことと、付き合ってないことはちゃんと聞いたわ。けれど、周りはみんな2人は付き合ってるものとして見てたの!」
「……。」
陽葵が何が言いたいのか、由里にはまだ見えてこない。
「それで、武庫くんが由里をいいように使ってるんじゃないかって……!由里には付き合わないって言いながら2人きりで会ったり手を繋いだり、その、もしかしたらなぁなぁで由里の貞操も危ないんじゃないかって、私、思って…!」
「……。」
由里は陽葵の言葉に、ちょっとだけ納得していた。自分は全く深月を疑ってはいないが、周りの、陽葵の視点から見たらそういう風にも考えられるかも、と。
実際の原因の一つは、由里が急激に距離を縮めたことに深月が戸惑っているだけだし、手を繋いだり2人で会うことを誘っているのも由里の方なのだが。
「だから武庫くんが由里との付き合いを否定したことは、意外だったの。その場は適当に付き合ってることにして、私を追い払う方が簡単だと思うから……。」
恋に盲目になっている由里ならば、後で適当にはぐらかせばいい。
そういう考えをするような人物だと、陽葵は勝手に思っていた。
これが陽葵の大きな勘違いである。
「その、ね。もう遅いかも知れないけど、私、武庫くんに謝るわ。『よくあなたのこと知らないで、酷いこと言ってごめんなさい』って…。それに、由里が怒っても当然だと思う。本当にごめんなさい!!」
「……。」
陽葵は、ちゃんと深月に謝ると言った。
なので、由里としては今後気をつけてくれなら、もう陽葵を責める気持ちは無くなっていた。
ただ、涙ながらに謝る陽葵の許し方を由里は知らなかった。
そういえば、こんな喧嘩みたいなことをしたのも初めての経験だと、今更ながら思った。
「……っ、うぅっ。」
「……。」
由里が何も言わないので、陽葵は頭を下げ続けた。
由里は困り果てた末、深月ならどうするか、と考えた。
すると、自然に陽葵の頭に手を乗せることができた。
そのまま、ゆっくりと撫でる。
自分は深月に撫でられた事があるが、他人を撫でたのは初めてだった。
「由里…?」
ぎこちない手つきで自分を撫でる由里に、陽葵が顔を上げる。
「……陽葵の言いたい事、わかった。私も、ごめんなさい。」
「……由里っ!!」
また深月の真似をして、励ますような笑みを向けて見る。
頬が引きつっていて目は笑ってない、陽葵や深月以外が見ても『笑顔を向けている』とは思えない表情だったが、それがわかる陽葵は感動で由里にしがみ付いた。
わんわん泣く陽葵を、由里はちょっとだけ子供みたいで可愛いと思った。
それから、陽葵が泣き止むと2人は手を繋いで帰った。
陽葵がそうしたがったので、由里が応じたのだ。
「由里、今回のことはちゃんと武庫くんに謝るけど、私は武庫くんをよく知らないのは変わらないから、その……。」
「……うん、いい。」
陽葵の言葉を最後まで聞かずに、由里は返事をした。
「深月を知っていけば、自然と認められるだろうから。」
「そっ、そう……。」
自信満々に答えた由里に、陽葵は悔しそうな表情をした。
ここまで由里に信頼される深月が、羨ましかったから……。
この日以降『しっかり者の陽葵が、どこか抜けた由里を引っ張る』関係が、ちょっとだけ変化する。
陽葵は由里に対して、ぎこちなく自分を慰めてくれた由里を一層愛おしく感じるようになった。
何はともあれ、由里の頑張りと陽葵の素直な謝罪によって2人の友人関係は保たれた。
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