贅沢な懐石料理を全て平らげた後、一休みすることにした。それ程明るくはないはずの、生暖かい行燈の灯りが、部屋を包むように灯っていた。


 夜の露天風呂を楽しむため、日向は部屋を後にした。風呂に向かう前に、愛刀である天雷てんらいを預けるため宿の主人のもとへと向かった。

 いかにも豪商という風貌の男と何やら話していた主人は、日向が近づいた時にちょうど話し終えたようで、休む間もなく日向に話かけた。

「刀でございますね」

「出来れば手放したくないが」

「しかし盗まれては大変でございますので」

 丁重に刀を受け取った主人は、そのまま慎重に持って行った。


 長い廊下の先に、大浴場がある。宿の主人の言った通りだ。廊下には等間隔で行燈が置かれ、外に広がる庭には燈籠がある。夜ではあるが冷たい暗黒ではなく、その健気な光は暖かだ。


 大浴場にはまばらに人がいる。歴史好きの宿の主人の趣向か、浴場に鷹姫たかひめの彫刻がある。日向はその向こうの露天の湯へと向かう。

 静まり返る夜の虚空に湯気が呑まれていく。

流れる湯の音と、周囲の自然の音が心も癒していく。

「先客がいたか」

「やっぱり。貴女は昼間の」

「それにしてもすごいお傷で」

「ただの古傷だ。時々ぶり返してな。おかげで湯治巡りが楽しめる」

「侍も大変なのですね」

「お主こそ町娘にしては、体中に生傷が多いな。力仕事か、それとも」

 複数人の近づく気配や音がすると、二人の会話は自然消滅した。町娘はすぐ退却し、日向も程なく湯を後にした。


 まだ残る名湯の感触と、体にそそぐ夜風の均衡は万全なまま、日向は釣り人たちを見つめている。併設された釣り堀は、一日中開放的だ。

「あんたやっぱ、扇日向だな。あそこの蕎麦美味いだろ?」

 片腕の男が竿を持ちながら、日向に話しかけてきた。

「知っているのか」

「知らない奴に会わせてもらいたいね」

 男は夜の水面に糸を垂らす。その波紋が広がると同時、女の叫び声が響いた。二人は周りが騒ぎ出すよりも速く、その悲鳴の方向へ走り出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る