epi 5

 昼休みで、何人かの生徒がグランドで遊んでいる声が聞こえる。この体育館裏は静かなものだった。

 僕たちは壁に寄りかかり、並んで座っている。


 沈黙を破るように、松乃葉先輩がいきなり僕の頬の傷を触った。


「痛っ、痛いです、ちょっと、え? うわあっ」


 顔が近い、近すぎる! 松乃葉先輩が、今にも僕の頬の傷を舐める勢いで顔を寄せた。口を半開きに、舌を出している。


「わー、待って、松乃葉先輩? 待ってください! なんでなんでなんで?」


 どうにか松乃葉先輩の両肩を押さえて、止めることができた僕は、すっかり肩で息をしていた……。あーびっくりした。


「むー、にゃんで止めるんだ? そんな傷、にゃめとけばにゃおるんにゃけどにゃ」


「分かりました、分かりました。何を言ってるのかさっぱりですけれど分かりましたからちょっと離れてください、松乃葉先輩……」


 はあ、はあ、はあ……。

 

 再び体育館裏は静寂を取り戻した。

 しばらくして、不満そうな顔をしていた松乃葉先輩の表情が和らぐと、口を開いた。


「さっきの、『松乃葉』ってのやめて『雪見』って呼んでくれにゃいかにゃ。わたしは『雪見』にゃんだからさ」


 え? 僕は女子の名前を下の名前で読んだことなんて一度もないんですけど……。ドギマギしながらも、僕はうなずいて、「わ、分かりました、ゆきみ先輩」


「『先輩』もいらねーにゃ」


「ゆきみさんで、いいんでしょうか」


「にゃ、は、は、は、は、よし!」そう言って、ゆきみさんは満足そうにして話を続けた。


「どうだろう? これで、あの三人は懲りたかにゃ? もう一発やらにゃいと駄目かにゃ?」


「……どうでしょう? 分からないですけど、ゆきみさんはもう関わらない方がいいです。こんなことに巻き込んでしまってすいません」


「んー? それは違うから気にすんにゃ。わたしがこんなことに巻き込まれに来たんだから。君を傷つけるものから守る為に」


「え?」


「うちの子に優しくしてくれたお礼にゃ。たぶん、これからは君に何かあれば、わたしの友達が守ってくれると思うんだ」


 ? 友達? 守ってくれる? 言っている意味がよくわからなかった。


 あの老猫に制服を掛けたのも、偶然見つけた薄汚れた瀕死の猫が、情けなく命を捨てようとする自分と重なったからだ。ただそれだけのことだ。


「それでも、あの子はとても優しい気持ちになったんだよ。苦しくて、寂しくて、そんな心が安らいだ」


 あれ? まただ、僕は考えを口にしていないのに、やっぱり会話が成立している?


「君もさ、あんな奴らギッタンギッタンにしちゃえば良いよ! おもいきり噛みついたりしてさ! にゃはは」


「……僕は、ゆきみさんみたいには、強くないから」


「そんなに優しいのに?」


「ええ? そんなの役にたたないですよ。よく言うじゃないですか、優しいだけじゃ何も出来ないって。力がなきゃ」


「わたしは力があって、強い? でも、そのわたしがここにいるのは、君の優しさがあったからだよ」


「……でも、それは偶然——」


 僕がすべてを言うよりも早く、


「偶然でも、結果的にそうにゃっただけだとしても、良いんじゃにゃいの。優しさで、人は集まるよ。だから一人でいては駄目。みんにゃにその優しさを与えるんだよ」


 ゆきみさんは立つと、正面に位置を変えて膝をついた。そして両手を伸ばして僕の傷だらけの頬を包むように触れた——。


 ひんやりとした手の感触がとても心地良い——。


「優しさは、とても強い力ににゃるんだって」


 そう言ってゆきみさんは僕のおでこに、自分のおでこを軽く当てた——。

 心臓が、脈打つのが早くなる——。

 突然、これは何かが違う、と感じた。予感がする。これはきっと、不思議な何かが起きているのかも、と。

 目の前のこの人は、本当に存在しているんだろうか? とさえ思った。

 でも、そんなことがあるわけない。もちろん、存在している。


「さて、そろそろ限界だ」


 ゆきみさんは立ち上がりながら言った。さらに、


「じゃあ、もう戻るけど、もう一度約束。放課後、授業が終わったらすぐにわたしのクラスに来て。必ず! にゃ」


 変わらず強引だった。けれど、僕は承知した。


「それじゃあ、優。バイバイ! 」とゆきみさんは駆け出す。左手を高く挙げて。


 体育館裏からゆきみさんの姿が消えてすぐ、昼休みを終える予鈴が鳴った。


 ドキドキしたままだ——僕はしばらくのあいだ、ゆきみさんが見えなくなっても、どこを見るでもなくその辺りを見つめていた。ところどころ、言葉が変だったり、おかしな言い回しをしたり、よく分からないことを言ったりするけれど——。


 胸はドキドキしたままだった。

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