(五)

 目を覚ますと、白亜色の天井があった。


「……ああ、そうか」


 一宿一飯の恩義を前貸ししたんだったな、とライルは寝ぼけた頭で思い出す。


 クリーム色で整えられた部屋の内装は質素な趣だった。衣服箪笥たんすにクローゼット、朝日の差し込む窓には瀟洒しょうしゃな意匠の施されたガラスが嵌め込まれ、光を和らげるカーテンが微風を受けて穏やかに揺れている。戦時下だからか、あるいは家主の職業柄か、部屋の隅には弾倉が外された拳銃が立て掛けられていた。


 客人がいつ来ても失礼にならないよう綺麗に整えられたベッドから身を起こし、ライルはぐっと背伸びをした。ばきぼき、と反動であちこちの関節が悲鳴を上げる。


 地面の柔らかい、そして手の届きそうな天井のある場所で目を覚ますのは久方ぶりだ。


 はて、いつ以来だろうか……と記憶を探るもまるで思い出せない。

 アスラステラまでやってくる最中、しっかりと眠りにつけた覚えはなかった。


 身を隠すために廃墟すら近寄れず、夜中に望めるのはきらめく満天の星空だけ。横になる行為すら死に晒すに等しい行為であるために、安眠なんてできるわけもなかった。


 客室を出て、階段を伝い一階へ降りる。向かって右手の居間から人の気配と香しい匂いがいて、ライルは誘い込まれるように踏み入る。


「ああ、目が覚めたのね」


 居間には、ソファーに身を沈めながらサンドイッチと珈琲を嗜むリーラの姿があった。


 折角だからと手招きされ、ライルは軽く頷いてリーラの対面に腰を下ろす。沈み込むようなソファーの感触に戸惑いながらも収まりの良い場所をみつけ、深く息を吐いた。


「食事、どう? 喉を通りそうかしら?」

「ああ……大丈夫、だと思う」

「何日も喉に固形物を通していなかったら当然よね、あの反応は」


 空腹で倒れたライルはそのままリーラの家で厄介になったのだが、一週間近くも胃の中を空っぽにしていたがために、肝心の食事を身体が受け付けなかったのだ。


 眠りにつく前にリーラお手製の白湯を胃に流し込んだおかげか、なんとか胃袋にサンドイッチを納めることができる。かぶりつくたびに芳醇で濃厚な風味が口の中に広がって、思わず吐息を漏らす。


「ああ、うまい……」


 気付けば手の中から朝食がすっかり消えてしまった。


「美味しそうに食べるのね……」

「あ、いや……これは…………別に食い意地を張っているわけじゃなくてだな……」

「私のぶんもいる?」

「……いいのか?」


 どこか遠慮がちなライルに、リーラは微笑んで自分のぶんを差し出す。


「遠慮しなくていいわ。なんならもっと作ってあげてもいいけど?」

「あ、いや……そこまではいい。いや、本当に、あまり贅沢をすると不安になるから」

「これが贅沢って……あなた、一体どこからやってきたのよ」


 戦時下ですら、この程度の食事に困ることは一度だってなかったというのに。よほどの貧困地帯から逃れてきたのだろう。


 リーラの問いに、ライルはしばし逡巡して、


「…………北のほうから逃げてきたんだ」

「これは申し訳ないことを聞いたわね。あなたの故郷も、ユグドラスに」

「いや……そうじゃなくてだな……。実を言うと――」


 そうしてライルが意を決して打ち明けようとした矢先、


「様子を見に来たぞ、リーラ。彼の調子はどうだ?」


 やってきたのは身の丈二メートルもある大男だ。


 もっさりと生えた顎髭にスキンヘッドという賊のような出で立ち。床を踏みしめるたびに木板がぎしぎしと軋んでいる。


「……と、聞くまでもなかったか。元気そうでなによりだ。ベッドでぶっ倒れているときよりは顔色も良くなってるな」

「……ええと、あんたは?」


 続けようとした言葉を飲み込んで、ライルは目の前に現れた大男に誰何すいかする。


「そういや初対面か。俺はウォードだ。ここアスラステラで機鋼蟲迎撃師団という武装戦力の師団長をやっている。それと、リーラの後見人だ」

「……後見人ってことは」

「本当の両親は行方不明よ。多分、死んでしまったんだろうけどね」


 ライルの問いに、リーラが淡々と答えた。


「そいつは悪いことを聞いた」

「いいわよ別に。もう、ずっと昔の話だから。それよりさっき何か言いかけていたけれどなにかしら?」


 リーラが続きを促すも、ライルは首を横に振った。


 さすがにリーラ以外の誰かに聞かせるつもりは、いまはなかった。


「いや、たいしたことじゃない。それよりもだ……ウォードさん、あんた、ここがアスラステラだって言ったな。だとしたら俺はぎりぎり間に合ったというわけか」

「間に合った? なにを言っている……」


 ウォードが訝しげにライルを睨む。


「ちょうどいい。目を覚ましたら問い質したいこともあって足を運んだ次第だ。リーラの報告によれば、お前は『依代』なくして魔法を使ったと聞いている。つまりそれの意味するところは一つしかないわけだが……お前、どこからやってきた?」

「……俺は魔人メイブルだ」


 ライルは席を立った。

 そして、リーラとウォードを一瞥して、口を開く。


「これは忠告だ。ユグドラスがクレイトスを墜としたってことくらいは耳にしているだろうが……、やつらはその勢いを保ったまま、まっすぐここへやってきている」


「「ッ!?」」


 リーラとウォードの双眸が見開かれる。


「昨日ここを襲ってきたのはユグドラスの斥候部隊だ。早けりゃ今日には第二陣を投入してくるだろう」

「「…………っ」」

「仮に斥候部隊の迎撃に成功したところで、次にやってくるのは本隊の前衛――クレイトスを陥落させた部隊の本丸だ。従える機鋼蟲の総数は斥候部隊のおよそ十倍。キリングスパイダーで構成された完全なる殲滅部隊ってところか」

「…………なによ、それ」


 リーラは絶句するしかない。


 桁が違う。

 そんな大軍が一挙に押し寄せれてくれば抵抗など無駄だ。

 それこそ本当に、呆気なく、瞬く間にアスラステラは終わってしまう。


「十分の一程度の斥候部隊に襲われて壊滅しかかっていたあんたらじゃ、どうすることもできない。一刻も早くこの国から逃げるべきだ。油を売っている時間は微塵もない」


 厳然と言い放つライルの態度に、ウォードが毅然と言い返す。


「俺たちはきみの言葉を鵜呑みにできない。仮にきみがユグドラスのスパイだとしたら、危機を唆すことでアスラステラの国民を待避させ、攻め落とす前に弱体化を図るだろう。素性の知れない旅人の忠告一つで避難を促すなんて無理な話だ」


「はっ、スパイね。こんな国に潜り込ませてなんになる?」


 ライルが小馬鹿にするような仕草で笑う。


「スパイを送り込ませるほどのなにかがこの国にあるとでも? 随分とおめでたい頭をしている。そもそも、ユグドラスが好むのは惨殺と鏖殺だ。姑息な手段を取らなければ苦戦するような国なんざ世界中を見渡したって存在しない。あんたらだって、じきに全滅だ」


「そうさせないための迎撃師団だ。昨日は突然の新型の襲来があって現場も混乱したが、二度目は通用しない」


「たかが蜘蛛一匹、螳螂一匹に苦労してるようなあんたらがそれを言うのか? あの斥候を相手取るのに何十人も投入しているくせにか?」


「ユグドラスの宣戦布告からこれまで一度たりとて機鋼蟲に領土を踏ませたことはない。それに、俺たちは国のため、国民のために誇りをかけて戦っている。危機が迫っているのに逃げ出すことなどない。ここにいるのは、覚悟を済ませた戦士たちだ」


「…………そうかい。誇りだけは一人前ってことかよ」


 そう言い切られてしまえば、ライルも押し黙る他ない。


 説得や忠告を聞く耳など持ち合わせていないのだ。


 ――己の命よりも尊く、守るべきものがある。


 それは、かつてユグドラスが蹂躙し、支配していった多くの国の民が、断末魔のように、皆一様に口にしていった台詞だった。


 ライルはそれを、皆目理解できない。

 死ねばすべてが終わるのだ。

 矜恃もろとも儚く散って、ただ、それだけ。


 守り抜きたいと、そう心に強く願ったすら為し得ず、叶わず、倒れていく。

 あとには何も残らない。


 死人とは、そういう運命にある存在だ。


 命に代えてでも国を守護するだなんて姿勢を、どうして尊敬することができよう。


 誇りなど、信念など、そんな無意味なものを後生大事に抱えてなんになる?


 夢や希望の一欠片すら余さず踏み潰されるだけだというのに。


「……忠告はしたぞ。斥候部隊を殲滅させた以上、ユグドラスも黙ってはいない。恐らく次に襲ってくるのは大半が蜘蛛型で固めた強襲斥候部隊だ。あんたらにあれをやれるとは到底思えない」

「大丈夫よ。私がなんとかするから」


 リーラが気丈に宣言する。


 そして、そんな彼女の意志を試すかのように、甲高い警報音が外で鳴り響いた。

 ウォードの目つきが変わる。


「リーラ、調子は万全だな?」

「ええ。すっかり」

「いつものとおり頼んだぞ。俺は先に行く」

「了解。すぐにあとを追うわ」


 我先にと玄関から飛び出していくウォード。


 そしてリーラも慣れた所作で居間の端でひとまとめにされていた槍や道具を手に取り、手早く武装を済ませる。


「敵襲か?」

「そうよ。駐屯地に常駐している国境監視役が機鋼蟲を発見したら即座に警報が鳴るようになっているの。そういうわけだからライルはここでじっとしていてね。特別に入国を許している身だから、街中をほっつき歩いていると怪しまれるし」

「本当にお前たちだけでなんとかするつもりか? なんなら俺も手伝って――」

「それは結構」


 ライルの申し出にリーラは首を横に振った。


「自分たちの身は自分たちで守る。昨日、助けてもらったことには感謝してる。けれど、たまたまこの国に立ち寄った素性の知れない誰かに何度も助けてもらわないといけないほど落ちぶれているわけじゃないわ。これでもまだ、この国は彼らの侵略を許していないんだもの」


 誇るような口調でそう語るリーラ。ライルの冷ややかな視線に気付くことはなく。


「この国を守る信念と誇りにかけても、奴らには絶対に負けない」

「……そうかい」


 ライルのぶっきらぼうな返事を聞き受けたリーラは軍靴のつま先を打ち付けると、勢いよく飛び出していく。



 リーラの家に取り残されたライルは、大仰に溜息をこぼして途方に暮れるしかなった。

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