職人の街ツィペリー

 婚礼から十数日後の朝、メルリーゼは久しぶりに寝台の上で目を覚ます。窓からの光が柔らかい。人が来るにはまだ早い時間だ。頭の重みを枕に預けたまま、紗幕の向こうへ声をかける。

「おはよう、イェソド。昨夜はよく眠れたかしら?」

 片手を伸ばして幕を除けると、彼女の護衛が控えていた。硬い銀髪に紫の両眼、制服は生家で見慣れた黒緑に金の縁取りではなく黒に鈍銀の刺繍。愛想の一つもない無表情にいっそ可愛げを覚えたのは、いったいいつのことだったか。

「この人ならざる身に睡眠など不要です」

 挨拶を返すなりイェソドは言った。メルリーゼは苦笑する。彼の言うことは間違いなく事実、それを忘れる彼女ではない。

「冗談よ。でも、こんな冗談に応える暇が貴方にあるのだから、きっと何事もなかったのね」

 メルリーゼは寝台から降り、明るい方へと向かう。イェソドが黙って彼女に従った。玻璃はりの嵌められた窓の向こう、丘の下には薄茶を帯びた石造りの街が広がり、点々と煙突から白い煙を立ち上らせている。エイナリッジ邸に到着した昨夜にはわからなかったが、改めて見れば故郷とは景色からしてまるで違う。

「ツィペリー、職人の街。これから私が生きる場所――」

 歌うように呟く。遠方に嫁ぐことは幼い頃から決めていた。それでも、自分自身に言い聞かせずにはいられない。


 思えばあの頃はいつも、違う、と叫びたかった。

「どうぞ勉学に励み、立派にお役目を果たされてくださいませ」

「お嬢様は聡明でいらっしゃるから、きっとできますわ」

 使用人たちは口々に言う。愛情からの期待だとは幼心に分かっていた。彼女が勝手に重荷だと感じているだけなのだと。分かっていても止まらなかった。優しい期待をかけられるたび、違うの、と叫びたくなる。何が違うのかは分からない。

「心ない者の声に惑わされてはなりませんよ」

 八歳の頃、家庭教師にそう告げられた。

「サラファス様にしか神王様のお声を聴くことができないというのなら、お嬢様はお嬢様にしかできないことを探せば良いのです」

 彼女なりに、跡目事情を気にしてしまうメルリーゼを気遣っての言葉だったのだろう。けれどそれすら辛かった。サラファスはいずれ神託を乞えるようになる。畑地を祝福することすらできるようになるかもしれない。神の声を聴くとはそういうことだ。農業のことでは敵わない。いくら必死になっても、期待には応えられない――。

「姉上、お勉強ですか?」

 そんないつかの夜のこと、一人で文献を調べていたメルリーゼはサラファスに声をかけられた。慌てて本を閉じる。フィアダーマ領とあまり関係ない勉強をしているところを見られてしまった。笑顔を作ってから、自身の失敗に気づく。

「ツィペリー? 領内にそんな名前の町があったでしょうか」

 サラファスは本の表紙を見て首を傾げた。金穂草の色をした柔らかな髪がさらりと揺れて、振り仰いだ背後にはログナーが控えている。まだ若かった彼の硬い表情が、あの時は怖かった。

「サラファス様、ツィペリーはフィアダーマ領で一番南の村よりずっと南にある街です」

 ログナーが腰を折り、サラファスの耳元で教える。

「ああ、二代目の聖王様が戦った街ですね」

 サラファスは嬉しそうに笑った。丸い頬が緩み、見ていたログナーも心なしか表情を和らげる。メルリーゼは全身がさっと冷えるのを感じた。頭だけが熱く、意味もなく記憶を辿って空回る。

「それだけではないわ。魔族の国から入ってくる知識と南から運ばれてくる材料が合わさる物作りの街で、フィアダーマの民の暮らしも彼らの作る道具が無くては成り立たないの」

 今思えば、いや当時もこの後、何ということをしたのかと思うようなことだ。まだ五つの弟に苛立ちやり込めようとするなんて。ログナーはしかし何も言わなかった。サラファスは呆気にとられていたが、やがてまた屈託なく笑う。

「そうか。民のためには外のことも勉強して、そこの人々とも助け合わないといけないんですね」

 青い眼が純粋な尊敬に輝いていた。メルリーゼは何も言えずまた机に向かう。戸惑っただろうサラファスはログナーに連れられて書庫を後にした。熱かった頭が冷えて、代わりに胸が熱くなるのを感じた。


主様あるじさま、人が来ます」

 端的な言葉が意識を引き戻した。物思いを振り払って、窓から離れようとしたところで扉が叩かれる。イェソドが無言で膝をついた。返事も待たずに扉が開き、続々と女使用人たちが入ってくる。黒と白を基調にした仕着せに身を包んでいる。

「おはようございます、メルリーゼ様」

 先頭の一人が深々と一礼した。後続はそれに倣ってから、衣服や道具を取りにか部屋を出ていく。無駄のない、統率の取れた動きだ。フィアダーマ家の使用人たちのように軽口を叩くことなど決してないだろうと思わせる。

「お目覚めになっていたのなら私どもをお呼びいただいても良かったのですよ。今やメルリーゼ様はエイナリッジ家の一員、私どもの主となられたのですから」

 挨拶をした使用人はそう言って、屈むイェソドを一瞥した。

「護衛の者も同じ思いでいることでしょう」

 メルリーゼは顔が引きつらないようとっさに微笑を作る。彼女が護衛と言うのはもちろんエイナリッジ家の護衛のこと。つまりは素性も知れないイェソドひとりを連れて来たことを言外に咎めているのだ。フィアダーマですら聞かなかった露骨な嫌味は、かえって気分を奮い立たせてくれる。

「ええ、私としても貴方がたや護衛の者たちがこの家によく仕えていることは知っているつもりです。けれどこのイェソドは私が魔道で召喚し契約した者。エイナリッジともフィアダーマとも関係ない私の一部、手足のようなものだと思ってください」

 如才なく労いを込めながら主張する。相手は依然として頭を下げたままだ。その陰にどんな顔を、どんな本心を隠していることか。

「私とてその方の忠誠を疑うわけではございません。しかしメルリーゼ様だけの護衛ゆえにあちらへ残せないのだとしても、任を解きあるべき所へ還すことはできましょう」

「そのとおりです。けれどクレオリー様は私がこれを伴って来ることをお許しになりました。慣れぬ地で手足まで失うことは心細いだろう、と仰ってね」

「旦那様のご好意であれば否やはありません」

 女使用人はようやく引き下がる。結局、彼女の主人はエイナリッジ家当主、メルリーゼではなくその夫というわけだ。当然だと思う反面、気が重くなる。早くもフィアダーマを懐かしんでしまう思いを押し留めて澄ました顔を作った。

 部屋を出た者たちが戻ってくる。その手にした物を見たメルリーゼは言葉を失った。上衣だけでも四枚はあり、色が違うから選ばせるのかと思えば重ねて着せようとするのだから堪らない。服が終われば次は髪だ。何度か結い上げようと引っ張られたがメルリーゼの髪では長さが足りない。仕方なく櫛を差してどうにかまとめる形に落ち着いた。その上から化粧と小山ほどの装飾品が加わる。

 仕上げに姿見を覗かされたメルリーゼは、感嘆するより先にうんざりした。一つ一つの装飾も、薄青から紫に近い薄紅への階調を取り入れた色の取り合わせも、見ている分には綺麗だと思う。だが自分が身につけるとなれば話は別だ。

 何事か成し遂げたような表情で退出していく女使用人たちを見送ると、衝立の陰からイェソドが現れる。様変わりした主の様相に何か言おうと口を開きかけ、すぐに扉の方を向いてしまった。戸惑ったのか、関心がないのか。生家のそれと色や意匠しか違わない制服を内心で羨んだメルリーゼはまた扉の叩かれる音を聞く。

 どうせまた勝手に入って来るのだろうと思い黙っていると、そのまま部屋が静まり返った。慌てて返事をする。勢いよく扉を開けたのはこの十数日ですっかり見慣れた人物だ。

「おはよう。昨夜はよく眠れたかい? その寝具も君のため特別にしつらえさせたものでね、体に合っていれば良いのだけど」

 その人物――クレオリーは鋭い目に軽い笑みを浮かべる。落ち着いた灰色に見事な発色の藍を差した衣服はまるで用いられた技術を誇示するかのように袖も丈も長い。メルリーゼは腕にまとわりつくような幅広の袖の感触をどうにか忘れようとした。

「ええ、おかげさまで」

 彼女の内心をどう捉えたのか、クレオリーは笑みを崩さない。

「それは良かった!」

 好意的な反応に安堵しつつ、どことなく違和感を覚えた。探るとはなしにその根本を探って、目の前の笑顔が挨拶の時からほとんど動いていないと気づく。人の表情とはもっと移り変わるものだ。そう考えながら思い出す表情は、気づけばほとんどが生家に残した弟のものだった。

 袖を軽く握って、弟の面影を振り払う。今のメルリーゼはサラファスの姉であるより先にクレオリーの妻でなくてはならない。心の中で二度三度そう唱えてから現在に目を向けると、いまだ動かない笑顔が視界に入った。和らいでなお鋭い眼は髪と同じ深緑。その色を認めれば自然と目が合う形になる。

「何度見てもやはり美しいな。君が応えてくれて嬉しいよ」

 柔らかく細めていた目に力がこもった。貼り付けられた笑みが剥がれ落ちる。その下の顔は、至って真剣なものだった。

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エイナリッジの花束 白沢悠 @yushrsw

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