白紗花と魔術の光

 帳簿を閉じて、右脇の山の一番上に乗せる。ふと気づけば山はかなりの高さになっていた。暗い窓の外から鳥や虫の声がする。集中の切れたサラファスは左奥に手を伸ばして魔術灯を切った。燭台とは違う白い光。これを贈ってくれた人はもう、この屋敷にはいない。

 扉が叩かれた。知らず暗く沈んでいた表情を和らげて返事をする。

「――サラファス様」

 ログナーと同じ焦茶の髪と眼をした少年が、書類の山を片脇に抱えて立っていた。遅い声変わりを経た声はそれでもやや高く、気遣わしげにひそめられている。サラファスは微笑を作った。

「ミロンか。そこに置いてくれ」

 他の者に頼んでいた書類を持ってきてくれたのだろう、ミロンが抱えていたのはエイナリッジ領に関する文献、彼の地と取引のある商人たちの帳面、あるいは吟遊詩人らの噂話の記録などだ。調べ物が進んだ今となっては一目見てあまり役立たないだろうと判断できた。サラファスは自室を出て庭へ向かう。書類を机に置いたミロンの軽い足音が追いかけてくる。あの、と控えめな声がした。

「メルリーゼ様の旦那様になられる方は、どんな方なんですか?」

 サラファスは苦笑する。ミロンはログナー配下の護衛見習いだ。主の執務についてせんさくするなど決して褒められたことではない。しかしサラファスは彼の問いを内心で歓迎した。知識こそ乏しいが、ミロンは賢い。彼と話すと考えがまとまる。

「私にもそう詳しいことは分からない」

 廊下を歩きながら腕を組んで、サラファスは記憶を辿った。

「クレオリー・エイナリッジ……魔族の国に近い職人の街ツィペリーを治める家の今代当主。歳は二十五、姉上の二つ上で、当主となって日が浅いにしても評判が良くない。仕事もせず遊興にふけったかと思えば、気紛れに口を出して政を乱すのだという」

 後ろでミロンの歩調が乱れる。だがサラファスは振り返らない。もう十日も前に見た、あの風変わりな装いを思い出す。

「以前お会いした限り、そう思慮の浅いようには思えなかった。立ち居振る舞いはそつなく、身を飾る物も良い品であるばかりかよくお似合いだった。少なくとも身の回りの世話をする者には慕われている……そのような印象を受けた」

 袖や丈の長い衣、結んだ髪に冠。あれは思えば魔族の国の礼装の型だ。配色だけがロギエラ風に白だったので思い出せなかった。ともあれ、異国の要素同士を取り合わせてなお似合っていたあの衣装は、職人の街の領主というだけでは説明しがたいように思う。

 話が婚礼の儀に及んで、ミロンが小さく声を上げた。

「叔父上が言っていたんですけど、メルリーゼ様はイェソドさんにさえ前もってご相談をなさらなかったそうです。きっとお父上やその側近の方しか詳しいことは知らないと思います」

 サラファスは溜息をつく。父が健在である彼はいまだ次期当主でしかない。十数日前まではその後ろに「候補」が付いていた。父の補佐としての務めはあっても、最終的な意思決定権は無いのだ。だからこうして、肝心な時に何もできない。

「父上は何も教えてくださらなかった。こういう時ばかりは、つくづくフィアダーマが社交に疎いことが悔やまれるな」

 庭への扉を開けさせると、冷たい風が吹きこんでくる。ミロンを伴い外へ行って風に当たった。季節は晩秋、咲いている花はごく少なく、ほとんどが宵の暗さに沈んでいる。

「魔術灯を持ち出してくれば良かったか……」

 唯一の例外を前にして、サラファスは誰にともなく呟いた。刺繍の透かし模様を思わせる薄く白い花弁が風に震え、夕映えに浮かび上がって見える。白紗花シルファという秋の花だ。穏やかな香りをもち、薬効もあるという。けれども今はそんなことより、その繊細な白が姉の着ていた婚礼の衣装に重なって――もう一つ、彼女との別れを想像もできなかった幼い頃の、他愛のない出来事が思い出される。


 サラファスは繋いだ手を引いて廊下を抜け、庭へ駆け出た。

「姉上、こちらです」

 息を弾ませて背後を見上げる。八歳の彼が力の限り走っても、三つ上のメルリーゼよりはずいぶん遅かったはずだ。それでも彼女は手を引かれていてくれた。それも優しさだった、と後になって知った。

 十一年前の晩秋の宵、小さな体が暗い風に冷えて、それでも彼は得意げだった。

「白紗花というそうです。ひらひらして綺麗でしょう?」

 薄暗い庭にぼんやりと浮かび上がる白い花。庭師に教わったばかりの名前を口に出し、サラファスは姉に笑いかける。その頃のメルリーゼは元気がないようだった。だから笑ってほしいと思った。綺麗な花を見せたら喜んでくれると。単純な考えだ。姉は疲れているのだから無理をさせてはいけないと、あの頃は分からなかった。

「本当は昼の陽の光の下で見るともっとずっと綺麗なんです。でも昼はなかなか会えませんから……」

 だから彼は、困惑したのだろうメルリーゼの表情を見て、花が綺麗でないからだと思いこんだ。本当はもっと綺麗だからと、的外れな説得を試みて――ふいに動いた彼女に驚いた。

 メルリーゼは不思議な歌のような、よく分からない言葉を呟き、宙に何かを描くように右手を動かす。サラファスが呆気にとられている間に今度は彼女の手が光を放った。白紗花が白い光に照らされて、まるで真昼だ、と当時は思った。

「光の魔道よ。昼の光ほど明るくはないけれど……」

 優しい声が降ってくる。振り仰げば姉と目が合った。光を反射し星のように輝く青い眼が、途端、すっと細められる。

「そうね。白い花弁が白い光に映えて、とても綺麗だと思うわ」

「すごいです、姉上!」

 サラファスはメルリーゼに飛びついた。花を見て笑ってくれたことが嬉しく、すごいものを見せてくれた姉が誇らしかった。興奮するあまり、彼女の表情が見えていなかった。

 メルリーゼの遊学が決まったのは、その年の冬だった。


 身震いをして我に返る。長く夜風に当たりすぎたらしい。屋敷の中へ戻ろうと振り返れば、開いた扉から差してくる光と、それを遮る人影が見えた。

「秋の宵は急に冷えます。どうか御身をおいたわりください」

 人影は言って、夜の庭に歩み出てくる。眩まされた目がその姿を認められるようになるより先に、落ち着き払った声で誰なのかは分かる。

「メルリーゼ様のことを心配しておいでですね」

「すまない。どうしても政務に身が入らなかった……」

 サラファスはうなだれる。庭へ出てきた人影、ログナーはサラファスの幼少からの護衛であり、その立場上半ば目付役のような役割も果たしてきた。今日一日を姉の夫クレオリーについて調べて過ごしていたサラファスは、きっと咎められるだろうと身構える。しかしログナーは顔色一つ変えず首を横に振った。

「いえ。せんえつながら私から申し上げても、この度のご結婚はいささか性急に過ぎるように存じます。ましてサラファス様はメルリーゼ様と幼少より大変仲がよろしかったご様子。一言のご相談もなしにお決めになるなど尋常のことではないでしょう」

 生真面目な彼にしては珍しく甘い。彼としても急な結婚が気になるのか、単に突然姉と引き離された主を気遣っただけか。そんなことを気にしていると、また扉の隙間から光が漏れた。

「ログナー様、サラファス様のお召し物をお持ちしました」

 硬い女声が静かに告げる。金色がかった灰髪を頭頂でまとめ、仕着せを少しも崩さず着込んだ彼女は、二年ほど前にサラファスの身の回りの世話を任されるようになった使用人だ。近頃の彼が気に入っている深い青の上着を持っている。

「ツーラか。手間をかけてすまない」

 ログナーの声が少し穏やかに聞こえるのは、堅物同士気が合うからなのか。サラファスもまた自身とさほど変わらない歳ながら冷静な彼女を信頼していた。上着を着せてくれようとするので任せてしまう。これが他の使用人なら詮索の一つも入ったのだろうが、ツーラは黙って上着を広げる。フィアダーマ家の使用人はよく働き人柄も良いが、少しばかり喋りすぎるきらいがある。

 ところが今夜ばかりはツーラも口を開いた。

「畏れながら、調べ物は今日限りになさいませ。姉君とてよほどのご事情がなければサラファス様へご相談なさったに違いありません」

 両腕を袖に通し、えりを整えたところで耳打ちをされる。サラファスは初めて聞く彼女のかんげんに目を見張った。確かにツーラは彼とメルリーゼの関係をよくは知らない。しかし彼はだからといって忠告を聞き流せる性分ではなかった。

「そう、だな。お前の言う通りだ」

 様子を窺っているだろうログナーにも聞こえるように答える。

「姉上が遠方に嫁がれた今、フィアダーマの次代を担う者は私しかいない。その私が、義兄上のお人柄を疑って務めをおろそかにするなど、姉上としても心穏やかではいられないだろう」

 ツーラは深々と頭を下げた。サラファスは平静を装いつつ屋敷へ戻る。後に続くログナーの表情は、確かめる気にもなれない。

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