02 澤井と保住


「どうぞよろしくお願いいたします」


 槇は相変わらず頭を下げて歩いていた。しかし澤井との邂逅以来、なぜか手ごたえを感じていた。


 ——どういうことだろうか。これは……。


 隣にいた相馬は、驚いた顔をして槇を見ていた。


「槇さん、一体どういうことなのでしょうか? 県庁職員票、昨日までは協力しないの一点張りだったのに。今日は手のひらを返したようではないですか?」


「それは——」


 ——おれも聞きたい。いや、きっと……澤井の差し金か。


「この調子なら巻き返しが可能でしょうか」


「そうだといいが。選挙はふたを開けてみないとわからない。油断大敵ってやつだ」


 槇は車に乗り込む。


「午後は?」


「午後は市長の公務に行かなくてはいけない。悪いが君一人で回れるか?」


「任せてください。槇さんの真似すればいいですもんね」


 太い腕を見せて、ガッツポーズを作る相馬は頼もしい肝っ玉母ちゃんみたいだ。槇は苦笑した。


「それにしても、佐竹陣営のマスコミ使いは上手ですね。出馬表明のタイミング。絶妙ですね」


 数日前の朝刊を眺めながら相馬はうなった。


 ——まさしくそれだ。


 佐竹が先手を打ってきた。二番煎じでは後手になると思ったからだろう。現役の安田よりも先に出馬を表明し、目新しいもの好きな市民の注目を浴びる時間を確保したのだ。市民は新人立候補者の声に期待を込めて歓迎しているに違いなかった。


 ——農業分野の組織票を少しでもいいから、確約を取り付けたいところだな。


「農業組合とアポは取れるだろうか」


 槇のつぶやきに、相馬は「どうですかね~」と明るく答えた。


「応じてくれるとは思えませんけど、アタックしちゃいますか?」


 ふふと笑う相馬の横顔を見て、槇は苦笑した。


「頼むよ」


「了解です」


 市役所の前に車を停め、槇が車から降りると、相馬が代わりに運転席に乗り込んだ。


「じゃあ、やってみますね~」


 彼女はあっけらかんと言い放つと、車をふかして走り去った。


「彼女の運転はアグレッシブなんだよな……」


 彼女の明るさには救われる。どんなに苦しい局面でも、槇と一緒に頭を下げてくれるのだ。


 彼女が走り去るのを見送ってから、槇は庁舎を見上げた。野原はどうしているのだろうかと思ったのだ。ここのところ、メールもままならない。対抗馬が出てきてからというもの、槇は寝る暇もない。夜も遅くまで地域を回る。そろそろ安田も出馬表明をしなければならない時期にきているのだが。当の本人が乗り気ではないことが一番の問題だった。


 安田自身も、市長として突っ走っていくことに、疲れを感じ始めているのだ。そろそろ槇に地盤を譲りたい、とばかり言っている。


 ——そんな弱気では困るのだ。


 澤井との約束は、あと一期。安田を市長として続投させるというものだ。その後はどうなるのかは知らない。槇は、四年後であっても、市長の後を継ぐ気はないのだから。


 スマホに手をかけてから、首を横に振る。勤務中だ。彼も忙しい時期には違いないのだから。槇は自分にそう言いきかせて、庁舎に足を踏み入れた。



***



 槇は市長室に向かう前に、副市長室に寄った。澤井には逐一、状況の報告を要求されているからだ。


 澤井は選挙戦の話になると、秘書である天沼あまぬまを使いに出す。公務員が選挙戦に口出しをすることはルール違反であるからだ。そんな細かいことをいちいち気にするような男でもないが、天沼に対する配慮だと思われた。


 この世界、聞いたものは同罪だ。天沼を巻き込みたくない——そんな澤井の配慮がうかがえた。


 槇が進捗状況を報告していると、珍しく来客があった。澤井のところに先客がいる場合、遠慮する職員が多い中、不躾に顔を出すのは、この男——保住くらいなものだ、と槇は思う。


 保住は槇よりは少し背が低い。線の細い不健康そうな顔色をしていた。左目尻のほくろが、彼を艶っぽく見せる。澤井が好みそうな男だ、と槇は思った。


「おや。槇さんでしたか。ご無沙汰しております。お取込み中ですね、出直しましょうか」


 自分より年下である保住。だがその出で立ちは、堂々としている。そこいらの管理職よりも肝が据わっているのかも知れない。聡明な瞳の色は漆黒。まるで濡れているように見える。


 彼は意味ありげな笑みを見せた。槇と澤井が一緒にいるところを見て、一瞬でその意図を理解しているのだろう。


 ——だから、賢い男は嫌いだ。


 保住は東大を出ているという。どうしてこんな田舎の地方公務員に収まっているのか、槇には理解しがたい。だが、頭のいい人間の思考回路を理解できるほど、槇は賢くはないことも自覚している。理解しようとするだけ無駄。深いことまでは考えないようにするのが一番だ。


 保住が登場したからには、ここに長居は無用だ。言葉とは裏腹に、「遠慮」などする男ではない。出直す気などないのだ。


 ——管理職でもない一職員のくせに。


 保住のことを快く思っていない管理職が多いと聞く。澤井の寵愛を受け、それを自覚して振る舞っている男だ。傲然と見えるのも致し方ないのかも知れない。


 保住と澤井は、過去には交際をしていたという事実もある。


 一度、澤井下ろしを画策した時。彼の弱点はないかと、方々調べ歩いた。その結果出てきたのがこれだ。澤井は保住の父親と同期。保住の父親は既に他界しているのだが、二人はライバルだったそうだ。それなのに、澤井はライバルの息子をかわいがっているというのだ。


 さすがの槇でも、そこにはなんらかの意図があるということは理解できた。そして調査の結論。


 ——澤井は保住に対し恋愛感情を抱いている。そして、二人は過去にそういった関係性を結んでいた……。


 結局、二人の関係性は破綻を迎えた、ということだが。澤井はそれ以降も保住をかわいがっている。その証拠に澤井は、市制100周年記念事業の責任者に保住を抜擢したのだ。能力的には適材適所。しかし、立場的にはかなり無謀な人事だった。


 保住は当時、一係長だった。しかも、係長になって日も浅い状況だった。それを副市長直轄の室長に任命するというのだ。副市長直轄の室長と言えば、課長級、もしくは次長級である。


 市制100周年記念事業が曰つきと言われている所以ゆえんはそこだ。先日も、ゲリマンダリング的人事に反発をしている者たちが画策し、保住の部下である田口が犠牲になった。それが、先日の田口の事件の真相だ。ある意味、田口は犠牲者でもある。権力闘争の犠牲者——保住は田口の事をどう思っているのだろうか?


「おれの用事は済んだ。では副市長。失礼いたします」


 槇の言葉に、澤井が不満を漏らすはずもない。澤井は、保住との至福の時のほうが大事だからだ。


 腰を上げ、扉に足を向けようとすると、後ろから保住に声をかけられた。


「槇さん。野原課長のお見舞いに行かれましたか」


 ——なに?


 振り返り保住を見据えると、彼は「やはり」という表情を浮かべていた。






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