第二幕

01 お弁当


 あれから、安田の対抗馬である佐竹が出馬表明を行い、地方新聞はその話題で連日賑わった。佐竹は農林水産省を退職したばかりの官僚で、梅沢市出身だ。地方自治体の首長が、国とのパイプを持つということは、大変有益なことである。国からの恩恵にあずかることができるからだ。地元の農業団体は大いに沸いていた。


「安田の時代は終わったんだ——」


 そんな人々の囁きを横目に、槇は選挙戦にのめり込んでいるようだった。彼と会えたのは、公園でのひと時だけだ。佐竹が出馬を表明してからというもの、彼からのメールは途切れている。それだけ現場では、シビアな戦いになっているということだ。


 槇の足を引っ張るつもりはない。彼からの連絡がないのであれば、じっと黙って待つ。それが自分のすべきことだ、と野原は理解していた。


 しかし調子が悪かった。眩暈めまいがひどいのだ。朝起きてから、世界がぐるぐると回っていた。パソコンを打つ手を止め、野原はこめかみに手を当てた。


 ——そろそろ限界か。


「課長、大丈夫ですか?」


 自分を心配するような声に、はったとして顔を上げると、報告書を持参してきた振興係長の渡辺が心配そうな表情で、そこに立っていた。


「あ、ああ。別になんともない——」


 口ではそう言っているのに、眩暈が止まらない。思わずデスクに手をついた。


「課長? 大丈夫そうじゃないですよ。課長?」


 冷や汗が流れ落ちた。


 ——限界だな。


 眼球が小刻みに震えている様に、渡辺はしびれを切らしたのか、声を上げた。


「誰か、救急車呼んで! 課長が——っ」



 ——そんな大げさなことではない。もう少ししたら落ち着くはずなのに……。


 眩暈が止まらない。世界がぐらぐらと歪んで吐き気を催した。



***



 結局。野原は「栄養不足」という診断を受け、混合病棟に入院することになった。野原が入院をするのは、そう珍しいことでもない。四年前の選挙戦の時にも同様なことが起きた。食事当番の槇が不在になると、すぐにこういうことになる。


 梅沢市立病院は、野原にとったら実家みたいなものだ。野原の母親は眼科医で、若い頃から、この病院に勤務しており、現在は副院長を務めていた。おかげで病院の幹部職員たちとは顔なじみだ。


 救急車で搬送された後、すぐに病棟の師長から連絡を受けた母親が、病室に駆けつけてきてひと悶着が起きた。野原の母親は、社会一般から見ると、かなり非常識でサディスティックな性格を持つ女性だ。救急搬送をされて、弱っている野原を足蹴りにして立ち去った母親の様子を目の当たりにして、周囲の人間たちは、ただ唖然としていた。


 病棟師長である唐沢が一人部屋を勧めてくれたが、そんな贅沢を言える身分でもない。野原はその申し出を断り、四人部屋の窓側にあるベッド伏していた。


 いつもだったら、大好きな活字を追うという作業も、眩暈や体調不良も手伝って、気が乗らない。一度開いた文庫本を、すぐに閉じて横になると、目の前のベッドで同様に読書をしていた田口が顔を上げた。


「課長。体調、よくなりませんね」


「大丈夫。いつものこと。もう少しすればよくなる」


 野原は声を上げるのも面倒だった。そんな彼の様子を察したのか、田口はそれ以上言葉をかけてくることはなかった。


 田口銀太。市役所職員であり、市制100周年記念事業推進室の職員。昨年度までは、野原の管轄する文化課振興係の職員でもあった男だ。


 なぜ、彼がここにいるのか——?

 

 つい先日、田口は庁内のとある事件に巻き込まれて、階段から突き落とされ、肩から足まで、複数個所を骨折し、こうして療養しているというわけなのだ。それが、なんという偶然なのか。こうして向い合せのベッドに寝ることになった。


 夕方の病棟は忙しない。面会のために訪れる人たちの声や、夕食の準備の音がする。野原にとって苦痛なのは、食事の時間だった。入院をして、味気のない食事を摂ることで、大抵は栄養状態は改善するものだ。しかし——。


 今回は様相が違った。病院食が口に合わないのだ。味が薄いならまだしも、舌が痺れるようなにがみを感じる。栄養不足は味覚にも影響を及ぼすのだろうか。食べたくもない食事が配膳されると、「食べなくてはいけない」という強迫観念に襲われて、気持ちが重くなった。


「課長。お加減はいかがでしょうか」


 瞼を閉じてじっとしていると、田口とは違った声にはったとする。顔を上げると、そこには、部下である有坂が立っていた。彼は渡辺が係長を務める部署に配属されている職員だ。


 無表情で感情が読めない。人の気持ちを理解することが難しい野原からしたら、余計に理解し難い、難敵でもある。だがしかし。彼には特技があった。料理が上手という特技だ。彼のお弁当を覗き見した時の感動は忘れられない。篠崎もよく弁当を作ってきてくれるのだが、有坂の弁当は、彼女のそれと遜色なく素晴らしい出来であるのだ。


 有坂は、「忙しいんです。なんでおれが」とは言うが、昼休みに、野原に卵焼きの作り方を教えてくれている職員でもある。食に興味がないとは言え、調理をしてみたいという気持ちがないわけではないのだ。出来ることなら、やってみたい——。誰かのために作る料理とは、それはとても大切なものに見えたのだ。


「お弁当ですよ」


 野原はからだを起こしてから、有坂を見上げた。彼は相変わらず能面のような表情で見下ろしてくる。


「おれに?」


「そうです。渡辺係長から聞きましたよ。病院食、手をつけていないそうですね。それでは退院がいつになるかわからない。正直、課長には早く戻ってきてもらわないと、現場が混乱しています」


 彼はうさぎのイラストが描かれているピンクのハンカチで包まれた弁当を、床頭台の上に置いた。


「渡辺係長が課長代行をしています。課長なら、それがどんなに悲惨なことか、おわかりいただけますよね」


「渡辺さん。よく来てくれるけど、そんなこと、一つも言っていないけど」


「自分で言うわけはないじゃないですか。——ともかく、早く退院していただきたい。そのためなら、毎日でも弁当作ってきます」


 有坂は上司と話をしている態度とは思えぬ、横柄な態度で咳払いをした後、「では。明日弁当箱回収に来ます」とだけ言って立ち去って行った。


 残された弁当を眺めていると、田口が笑っている姿が見えた。


「なぜ笑う?」


「いえ。すみません。あの人。えっと……おれの異動した後に来た有坂さんですよね。恥ずかしいんですね。課長を心配しているって、素直に言えばいいのに」


「心配? 有坂が?」


「そうですよ。あんなこと言っていますけど。課長のこと心配なんですよ」


 ——そうなのかな。わからない。有坂は、篠崎さんよりも難解。


 ハンカチを解くと、そこにはアルミ製の弁当箱があった。大して大きくない弁当のサイズは、野原の体調に合わせているとでも言っているように見える。中には、ごま塩と梅干の入ったごはん。卵焼き、鳥のつくね、ミニトマトが入っていた。


 久しぶりに「食べてみようか」という気持ちになった。野原は床頭台の引き出しから箸を取り出すと、両手を合わせてから「いただきます」と言った。







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