05 逢瀬



「ごめん、篠崎に頼んだ。議会で忙しい時期だってわかっているけど……」


 野原の視線を感じながら、槇はハンドルを握っていた。


「だから、あんなへんてこなこと言ったんだ。篠崎さん」


「へんてこ?」


「おれのパソコンだけ点検に来るから帰れって言われた。理由を聞いても、取り合ってくれない。どういうことなんだろうなって思っていた」


「なんだそれ?」


 機械越しに声を交わすだけでは物足りない。こうして自分の隣に野原がいるということだけで、槇は嬉しかった。


 結局、篠崎に頼んだ。二人のことを話したわけではないが、彼女は察しがいい。野原と槇が、ただならぬ関係性であるということを、彼女は知っているようだった。だから彼女に頼んだ。彼女は二つ返事で、快く野原を帰宅させてくれた。確かに、彼を帰らせる口実は、かなり無理がある内容だが、それを強引に推しきれる篠崎は、かなり有能な職員であるとうかがえる。この業界、多少の強引さは必要だからだ。


「なにそれって。一体、なにをするつもりなの?」


「なにって……。お前に会いたいからだろう」


 ハンドルから片手を外し、野原の指に絡ませて握る。彼に触れるのは久しぶりだったので、気持ちが弾んだ。骨ばった陶器のように冷たい指先が心地いい。指先の動きに応えてくれるように、野原の指もまた、槇の指先に絡みついた。


「忙しいくせに。遊んでいる暇あるの」


「これから後援会の集まりだよ」


「時間あるの」


「一時間はある。十分だろう?」


 車を走らせながらそう言ってやると、野原は黙り込んだ。槇がなにをしたいのか、理解しているに違いない。人の気持ちを理解する能力が低いくせに、人の気持ちの機微を察知する能力はずば抜けて優れている男だからだ。


「連れて歩きたいくらいだ。なあ、せつ。公務員辞めないか?」


「え?」


「だって公務員している間は、選挙活動はご法度だろう? 一般の民間会社に就職してくれれば、四年に一度の選挙戦の時、休職してもらって、手伝ってもらえるじゃないか。相馬さんはいいおばちゃんなんだけどさ。一緒に過ごすには、ちょっと、ね」


「相馬さんの悪口を言わないほうがいいよ。彼女のおかげで、選挙戦のスケジュール組めているんだから……。実篤じゃ、到底できないこと」


「それは、そうなんだけどさ」


「それに悪いけれど、民間企業にいたって、選挙戦の手伝いなんてしていたら、解雇になるに決まってる」


「いいじゃん。解雇されって。なあ、おれ。お前くらい養えるよ? 無職になっても」


 野原は呆れた顔をして、槇を見ているようだ。ルームミラー越しに野原を見返すと、野原の視線が外に向いた。


 ——ああ、恥ずかしいんだ。


 槇は嬉しくなって、人気のない公園の駐車場に車を乗り入れた。


実篤さねあつ?」


「ここなら誰も来ないだろう? それにこんな時間だし」


 平日の夕方は、帰宅する車ばかりだ。公園に用事にあるような人間はそういない。槇は車を停車させてエンジンを切ると、そのまま野原の首に手を回して抱き寄せた。


「実篤……」


「ああ、雪の匂いだ。いい匂い」


 首筋に顔をうずめて、それから彼の匂いに没頭する。歯牙で白い首筋を甘噛みすると、たちまち赤い跡がついて槇を興奮させた。


「実篤、こんなことろで……」


「一時間しかない。黙っていろ」


 槇はそっと野原の瞳を覗き込む。

 そこに槇の大好きな白緑びゃくろくの瞳はない。


「言いつけ通り、ちゃんとコンタクトしているんだな」


「だって——そのほうがいいって言うから」


「お前のその瞳は、おれだけのものだ。他の誰にも見せるなよ」


 野原は、軽く息を吐くと、コンタクトレンズを外した。色を変えるだけのためのレンズだ。外したところで、不都合はない。


「別に、こんなことしなくてもいいんじゃないかって言われるけど」


「誰に?」


「え? 渡辺さんとか、有坂とか」


「渡辺って、振興係長の渡辺係長か。あのおっさん。おれの雪になんてこと言うんだ」


 槇は「ち」と舌打ちをした。しかし野原は、珍しく不満げな瞳の色を見せた。


「渡辺さんは、いろいろと手伝ってくれる。自分の仕事もあるのに、おれのサポートもよくしてくれる。いい部下」


 槇は面白くない。野原が他人を褒めるのが面白くないのだ。


「有坂は卵焼きの作り方、教えてくれる。料理が得意なんだって。実篤も見習ったら……」


 これ以上、彼の口から他人を称賛する言葉を聞きたくない。槇は野原の細い首に手を回すと、強引に引き寄せて、その唇を自分の唇で塞いだ。


 野原の唇は冷たい。触れ合ったその場所が自分の熱に冒されていく様に興奮した。


 一か月のお預けは、槇にとったら拷問だ。何度となく野原との行為を重ねているというのに。飽き足りない。そっと自分の袖口を握ってくる彼の反応に満足した。言葉が足りない分、些細な仕草で彼の気持ちを確かめるからだ。


 ——雪が好きだ。この世のなにものにも代えがたいくらい大切だ。雪を失うなんてこと、おれには考えられないことだ。


 口付けに夢中になってしまえば、周囲のことなどどうでもいいものだ。この瞬間。選挙戦など、どうでもいいと思った。野原との時間が、槇には大切だ。


 ——いつだなしこうしていたいのに。


 口付けを交わしながら、野原のネクタイに指をかける。あふれ出す欲望は留まることを知らない。助手席のリクライニングのバーを力任せに引っ張り、椅子ごと野原を押し倒す。彼の耳元に鼻先を寄せてみると、野原が首を竦めるのがわかった。


「くすぐったい?」


「くすぐったい」


「そう。じゃあ、もっとしてやろう」


「意地悪」


「おれは意地悪だから。それに、お前のことは、おれが好き勝手していいってことになっているはずだけど?」


「そんなこと、いつ決めたの」


「昔からだよ」


 人に頭を下げて歩くことを、どうとも思っていないわけでもない。正直に言って、みじめな仕事だ。罵声を浴びせられたり、陰口を叩かれたりしながらも、笑顔を絶やさずにひたすら頭を下げて歩く。相手が望むなら、夜中にだってはせ参じる。それが槇の仕事だ。


 ——政治の世界なんて、ろくなもんじゃない。


 けれど。槇が頑張れるのは、野原のためだ。彼と一緒にいる。彼のためにやっている。


 ——安田を続投させて、澤井との約束を果たす。それが雪のためになるならば。おれはなんだってするんだ。


 野原の熱に浮かされて、頭の芯がぼんやりと霞む。彼との快楽に溺れる自分は、愚かであると自覚しているはずなのに。槇にとって、それは麻薬みたいにやめることができない行為だ。


「実篤……」


 陶磁器のように蒼白な細い腕にかき抱かれ、耳元で名前を囁かれただけで、理性は消し飛ぶ。


「雪。お前が好きだ」


 槇はそう何度もつぶやきながら、束の間の逢瀬を堪能した。




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