03 ネゴシエーション
「野原課長とは、いつお会いになられましたか?」
保住の意図が読めない。槇は眉間に皺を寄せ、それから保住を凝視した。
「——一週間前だ。今は色々と立て込んでいてね。安田市長の家に泊まり込みをしている」
「そうでしたか」
もの言いたげな彼の様子に槇は小首をかしげた。すると、彼は口を開いた。
「野原課長。昨日からご入院されていますよ。本人はいつものこと、と仰っておりました。あなたには伝える必要はない、とも。しかし、お伝えしておいたほうがよいのではないかと思案していたところでしたので、ちょうどお会いできて良かったです」
——入院って……あいつ。また食べなかったのか。
槇は舌打ちをした。予測できたことだが、事実となった今、苛立ちがこみあげた。
「賢明な判断だ。——ありがとう」
槇は保住に一瞥をくれてから澤井の部屋を出た。
「まったく!」
槇は苛立つ気持ちを押し隠すこともなく、廊下に出てから、スマートフォンの通話をタップした。何度かのコールの後、野原の声が聞こえる。
『保住から聞いたの? 毎日、田口の見舞いに来るから』
「お前ねえ。——なんで言わない」
怒りたい気持ちを押し殺すように、声を潜める。野原の声も小さくてよく聞き取れなかった。病室にいるせいで遠慮しているのか、それとも体調が思わしくないのか。
『ごめん——忙しい時期に』
「だからだろう? ここのところ、なんとか持ち堪えていたのに。おれがいないと、すぐにこれなんだから」
『——気にしなくて大丈夫。母さんのところにいる』
「お前ねえ。気にするぞ。顔見に行く時間もとれない。佐竹が出馬表明してしまったからな。すぐにでも駆け付けたいのに」
『大丈夫。いつものこと……』
消え入りそうな声に心がざわついた。
——どうしてだろう?
退院してくればまた会える。選挙が終わればまた会える。——はずなのに。心がざわつくのだ。彼がどこか遠くに行ってしまうような感覚に、足元がぐらぐらとした。
「安田の家に引き取る。訪問診療で十分だ。どうせ、点滴して寝ているだけなんだろう? 病院の不味い飯食って、回復しないんだったら、安田でうまいものでも食っておけ。おれがおばさんに交渉する」
槇の言葉に野原は「ふふ」と軽く笑った。
『そんな心配しないで。選挙戦で忙しいでしょう。おれのことまで面倒みてもらうなんて、迷惑。大丈夫。すぐに元気になる。いつもそんなにかからないじゃない』
「それはそうだけど」
『
彼からそんな言葉が飛び出すなんて——余計に心がざわついた。
『忙しい。切るね』
「あの。雪。メールするから」
『うん』
「しっかり食べるんだぞ」
『——うん』
切りたくない。切らないで。そう思うが、野原から通話は途絶えた。
「実篤? どうしたの」
帰りの遅い槇を心配して顔を出した安田と視線が合った。
「おじさん……雪がまたいつものアレです」
「え? 入院? 大丈夫なの?」
自分の不安を鎮めるかのように、自分に言い聞かせるように槇は安田に笑顔を向けた。
「大丈夫です。いつものあれですから——」
一抹の不安をぬぐい切れないまま、槇は市長室に足を運んだ。
***
槇は緊張していた。
いつもよりも少しグレードのよいスーツを身につけてきた。身だしなみには抜かりはない。姿見で何度も確認してきたからだ。
隣にいる相馬も、心なしか緊張をしているのだろう。いつもよりも口数が少なかった。
国産の高級車を来客用駐車場に停めてから、二人は無言のまま車から降りた。
「槇さん……なんだか心配ですね。本当にアポ取れるなんて思ってもみませんでした」
相馬は咳払いをしてから、槇を見上げた。
昨晩遅くのことだった。相馬が面談を申し込んでいた農協から、連絡が入ったのだ。
『明日、11時にいらしてください。総務部長がお会いになります——』
——今まで選挙活動をしていて、初めてのことだ。
これも澤井の影響なのだろうか。槇は、高鳴る胸の鼓動を抑え込むように深呼吸し、大きく頷く。
「相馬さん。おれに任せてください。あなたは、ただ笑顔を絶やさずに座っていればいい——」
「まあ、槇さんにお任せしていたら、上手くいくものも上手くいかないのではないかと心配ですけれど」
「ひどい言いぐさだね」
「だって、本当のことですもの」
相馬と視線が合う。二人は思わず吹き出した。
「あんまり笑わせないでくださいよ。相馬さん。まあ、いつもの調子でやってみましょうか」
「そうですね。お会いして応援してくださらないとしても、そもそもが応援してくださらない人たちですもの。結果は同じです。今日の面談の結果で、少しでもいい印象を持ってくれるのであれば、御の字……そんなところでしょう?」
「そうだね」
相馬は前向きだ。選挙戦を戦っていると、全ての人が支持してくれることなどない。反対勢力に非難されることなど常だ。
——ビビるなよ。実篤。
槇はそういい聞かせながら農協の建物に足を踏み入れた。受付の女性に名乗ると、すぐにエレベーターを案内されて、12階の応接間に通された。
約束の時間である11時を過ぎたところで、扉が開き、恰幅のいい初老の男が入ってきた。槇と相馬は腰を上げて頭を下げた。
「いやいや。急な呼び出し、申し訳ありませんでしたねえ」
男は口元を上げると、胸ポケットから名刺を取り出した。お互いに名刺の交換をしてから腰を下ろす。
男の名は横沢
——あいつの父親か。
「いやあ、槇くん。懐かしいねえ。中学の時は、息子が随分と世話になった」
「その節は……」
槇が頭を下げようとすると、横沢は、それを手で制した。
「子供同士の諍いだ。君が謝ることではないよ。公立中学に転校してからの方が伸び伸びとしていたものだ。私はそもそも附属中に入れることには反対していたからね。寧ろ君には感謝しているくらいだよ」
横沢は、息子が槇との間に起きた暴力事件のことについて話していた。
あれはどちらが悪い、というものではなかったが、横沢だけが処分されたことに、槇は少なからず負い目を抱いていたのだ。
横沢はどっかりと椅子にからだを預けて槇を見返した。
「時間が惜しい。本題と行こうじゃないか。今度の選挙戦の話だね?」
「そうです。農協が、佐竹候補を推していることは重々承知です。しかし我々にも、それなりに考えがあるということを、お伝えしておきたかったのです」
「考え——ですと?」
「そうです」
横沢はこの道のボスだ。優し気に見える瞳の奥に宿る眼光は鋭い。一瞬でも気を抜けば、たちまち食いちぎられそうなくらいの、殺気にも似た空気が張り詰めている。
しかし槇は、常に澤井という男と対峙している。横沢と澤井を見比べてみると、どうやら澤井のほうが
——やれる。
槇はそう思った。
「安田はまだ出馬を表明しておりませんので、公約をここで明かすわけにはまいりませんが、再選が叶いましたら、あなた方にとって不利益になることはない。それだけはお約束できます。しかし——」
「しかし?」
「もしあなた方が、安田を推さず佐竹で行くというのであれば。安田が再選したあかつきには、どうなるのか——。この意味、おわかりですよね?」
「——脅すのか。君が? 私を?」
「脅しではありません。これは、ご協力のお願いです」
槇はそう言って、横沢の目を真っ直ぐに見つめ返した。
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