02 コンタクトレンズ


「課長。お茶どうぞ」


 ぼんやりとしていたようだ。よく通る女性の声が妙に大きく響いて、野原は顔を上げた。視線をやると、総務係長の篠崎が怪訝そうな顔つきで自分を見ていた。


「大丈夫ですか? 課長」


 彼女は浅葱色のカーディガンを羽織って、すっかり秋支度だった。


 教育委員会文化課長に異動して、一年半が経とうとしている。最初は、なかなか近寄らなかった部下たちだが、馴染んでくれたのだろうか。こうして、気さくに声をかけてくる部下が増えていた。だからと言って、「なんだ」ということはないのだが……。


 野原は軽くため息を吐いてから、首を横に振った。


「なんでもない。少し考え事」


「珍しいですね。課長がぼんやりとしているなんて。——お弁当残して。ここのところずっとですよ。またお弁当をお作りいたしましょうか?」


 いつも野原に気を使ってくれる篠崎は、心配そうな瞳の色を浮かべていた。野原は口元を緩めてから、「大丈夫。いつもありがとう。篠崎さん」と返した。すると、彼女は頬を赤くした。


「で、ですから。その。——そういうのはやめてくださいね。胸がキュンキュンします」


「え? 胸がキュンキュンってなあに? どういうことかわからない……」


 野原は思わず、篠崎の胸に視線をやった。「胸がキュンキュン」とは、音でも鳴るのだろうか、と思ったのだ。篠崎は、弾かれたように両手で胸を覆うと、「見ないでください!」と小さい声で言った。


「ごめん。女性のからだを見つめるということは、セクシャル・ハラスメントに該当する行為。悪気はない。キュンキュンってどこから聞こえるのかと思って……、ねえ、それ聞かせて欲しい」


「い、や、です! 聞かせませんよ。これは乙女の秘密なのです」


「乙女の秘密? またわからない言葉だ。それはなあに。暗号? 乙女とは、年の若い女性を指す。篠崎さんは、44歳? それが、年の若い女性に該当するのかどうか、判断に迷う年齢だけど……」


「もういいです」


 野原は、なぜ彼女が拗ねたような態度をとるのかわからない。首を傾げて、彼女を見つめると、篠崎は野原の瞳を覗き込んできた。


「課長、ちゃんとご飯は食べましょう。槇さんが忙しいからっていう言い訳は通用しませんからね。自分のことは自分で管理しないといけないお年頃ですよ。子どもじゃないんですから。それから——」


 彼女は「ふふ」と笑みを見せた。


「カラーのコンタクトは似合っていますけど——私は緑の瞳のほうが好きですよ」


 彼女に指摘されて、野原は思わず自分の瞳に手を持っていこうとしてやめた。無意味だということに気がついたからだ。


「槇さんも過保護というか、嫉妬深いというか。ねえ?」


「では失礼いたします」と立ち去っていく彼女を見送り、野原はため息を吐いた。


 ——篠崎さんが、一番難解。なにを言いたいのか、ちっともわからない。


 あれは、今年の春のことだった。槇が突然、見慣れない箱を野原に差し出して「これ、つけておけよ」と言った。その箱には「コンタクトレンズ」という表記がしてあった。


「——? コンタクトレンズ? 視力は悪くない」


「そうじゃない。ほら」


 箱から取り出されたそれは、鳶色のレンズだった。


「いい? 社会人だから。やっぱり目の色が不思議な色をしているのって不利だと思うんだよね。これから出世すればするほど、見た目の違いをからかう人間も増えてくるものだ」


 ——そういうものなの?


 槇の言っていることはわかる。しかし——。


「でも……入庁してからずっと、このままやってきたのに。今更?」


「いいの! ってかさ。察しろよ」


「え?」


 伸びてきた槇の腕に抱き寄せられても意味がわからない。野原は目を瞬かせ、黙っていると、彼はいつもより、声のトーンを落として言った。


「他の奴らに、その目を見られたくないんだよ。わかれよ。それくらい」


「——それって……」


 槇はそれ以上、なにも言わなかった。野原は「どういうこと?」という言葉を飲み込んだ。なんとなくわかったのだ。


 ——実篤さねあつは、きっと嫌なのだ。


 彼の真意はわからないが、気持ちは理解できた。だからあれ以来、鳶色のコンタクトレンズを装着していた。篠崎には不評だが、目の色が鳶色だろうと、白緑であろうと、仕事に支障をきたす事はない。ただ言いつけ通りに、半年以上が経つ今でも、それを実践していたのだった。


 市長選が忙しくなってから、槇とはずっと会っていない。彼は安田の家に泊まり込みだ。選挙戦が終わるまで、ずっとこの調子だろう。


 仕事はこなしている。これが自分へ課せられ責務だからだ。しかし帰宅すると、いつもだったら、槇が作ってくれる夕飯がない。槇がいないと、主食は菓子になる男だ。そんな生活が、ここ一か月以上続いていた。


 一人の生活は、思った以上に野原にダメージを与えていた。

 うるさいくらいに槇からはメールが入ってくるが、それも忙しい時間になるとぱったりとやむ。メールが来ると「うるさい」と煩わしく感じるくせに、メールがこなくなると、途端に心がざわざわとした。


 人と付き合うことが難しい男だ。槇以外の人間とばかり関わっていると、精神的な疲労が積みあがっていく。槇という男は、感情がぱっと顔に出て、それから野原を巻き込んで強引に物事を進めてくれる。それが、野原にとっては一番楽で、心地の良い時間だったのだ。


 ——だから実篤とは、ずっと一緒にいられるのかも知れない。


 今日のタスクをクリアしてしまうと手持無沙汰だ。周囲を見渡すと、部下たちは真面目な顔をして職務に励んでいるようだった。「見ました」箱の中に入れた、書類の山を見ながら、野原は引き出しを開けて、大福を取り出した。





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