第二章

第一幕 

01 私設秘書



 梅沢市長選が近かった。市長の任期は四年。四年ごとに選挙戦を勝ち抜かなければ、その座に留まることはできない。


 槇の叔父である安田は、現在三期目だった。

 初当選の際は、安田も若く、行政改革に燃えていた。公務員の在り方を見直そうと躍起になっていたのだ。当時の職員たちは、安田を毛嫌いし、随分と対立したものだった。しかし十二年という時間は、安田と職員たちが慣れあうには、十分すぎる時間だった。


 ——安田の時代は終わった。


 巷で、そんな噂がまことしやかに流れている事は知っている。安田のそばで、ずっと私設秘書をしてきた槇の耳にも入るほどだった。


実篤さねあつ。私は、市長をおりようかと思うのだ」


 彼はそう言った。


「私はね。後継者としてお前を育ててきたつもりだ。どうだろうか。私の代わりに、市長選に出てみないか?」


 先日。安田は真面目な顔つきで槇にそう打診してきた。槇にとったら、それは夢のようで、夢ではない話だった。そもそも、叔父である安田から、「私設秘書にならないか」と言われた時から、きっと自分は、彼の地盤を引き継いで政治家になるのだ、と思っていたからだ。


 ——おれは権力が欲しい。せつを守るだけの力が欲しい。


 子どもの頃から、そればかりを願ってやってきた。梅沢市のトップに座るということを、どれほど夢みてきたことか。しかし——。


 ——おれはそういう器でないことも、知ってしまったんだ。


 澤井とのやり取りを経て、槇はそれを自覚した。自分がトップに居座れるほど、度胸がないことを知らされたのだ。


 市長選には出ないという旨を伝えた時の、安田の落胆した表情は忘れられない。だが、自分の力量で担えない任を引き受けることはできないだ。それよりもなによりも、トップになれない自分が、一体どうやって、そもそもの願いを叶えるのか? それを模索しなければならない。最近の彼の興味はそこに尽きる。


「叔父さん。おれが支えますから。もう一期、やりましょう」


「お前だって、私の評価は知っているだろう? 私の地盤を引き継いでくれれば、お前は市長になれるのだぞ?」


 自信を失った安田は、年老いた獅子のように見えた。群れを追われ、後は惨めな末路しか残っていない。しかし、槇は副市長である澤井と約束しているのだ。安田を再選させる。それが澤井と槇の間で交わされて密約——。


「おれはね。人生をかけて成し遂げたいものがあるのだよ」と、澤井は言った。


「安田を再選させるということは、その計画の大きな足掛かりなのだ。槇さん。どんな手を使ってもいい。必ず安田を再選させるのだ」


 澤井はそう言った。


 澤井幸村——。梅沢市役所副市長の座にいる男。市役所の生え抜き職員で、現在、権力を掌握しているのは彼だ。安田ではない。安田は、彼の言いなりだった。何事かを決める際は、必ずと言っていいほど、澤井の意見を聞く。


 澤井には、とてつもない野望があるようだが、槇には到底理解しえないことだ。ただ自分に協力する気があるなら、槇のことも面倒をみてくれると約束してくれた。澤井を信頼してもいいのかどうか。正直に言えば、半信半疑だ。だがしかし、今の槇には、この状況を打開できるほどの力は持ち合わせていない。「安田を再選させる」という利害が一致している間、澤井が槇を切り捨てることはないだろう。


 安田を再選させ、自分も役所に残る——。そのために、澤井に協力する。それがトップになれない彼の、唯一の生き残る方法である。

 

 ——おれは無力だ。長いものに巻かれるしか能のない男。だけど、地面に這いつくばったって、この市役所に残ってみせるんだ。


 槇は頭を下げて歩いた。小さな子どもにも、ペットたちにもだ。出会う人、出会う人。野次を飛ばされようと、非難されようと、頭を下げるのだ。


「どうか、どうかその節はよろしくお願いいたします」


 槇は、高齢の女性に深々と頭を下げた。彼女は一昔前に流行ったブランドのワンピースに、古びた宝飾品を身に着けている。かすかに防虫剤の匂いが鼻をついた。


 ——プライドもへったくれもないな……。


 女性の声が聞えるまで、頭を上げることはない。頭上から「あらやだ。槇さん、頭を上げてくださいな」と声が聞える。槇は「待っていました」とばかりに、顔を上げた。皺だらけで、白髪の女性は、口元に手を当てて笑う。


「私たち婦人部は、みーんな、安田市長が大好きなんですよ。応援していますからね。頑張ってくださいね」


 ——そんなことを言って、選挙では対抗馬に投票する輩も多い。


 人間不信になるような仕事だ。口約束などあてにならないのに、それにすがるしかない。選挙戦とは、精神的に追い込まれるばかりだ。


 梅沢市西地区婦人会長との会合を終え、槇は車に乗り込んだ。


 槇は安田の私設秘書である。市長には二つの顔がある。市長としての顔と、政治家としての顔だ。


 公務のサポートは公設秘書が担う。市役所の秘書課秘書係長が中心となり、安田の公務が滞りなく遂行されるようにサポートするのだ。


 一方の槇は、政治家の顔を支える役割がある。公務の伴をすることも多いが、市長とは別行動をし、後援会活動や、選挙活動を担うことが多い。公務員である市役所職員とは違い、安田は政治家だ。市長の座にいるためには、選挙で当選しなければならない。


 選挙戦で、ネックになるのは、現職であるが故の公務である。いくら選挙期間中とは言え、公務をおろそかにはできない。新人候補者たちが、熱心に選挙活動を展開している中、彼が選挙戦に本格的に出てくるのは、告示後の数日程度しかない。それまでは、私設秘書である槇がなんとか踏ん張るしかないのだ。


 槇は後援会の主要メンバーたちと手分けをして、市内あちこちの団体に頭を下げて回っていた。


「実篤、すまないね」


 叔父の安田は申し訳なさそうな顔をするが、これは槇の仕事なのだ。


 ——安田を絶対に勝たせる。そして、おれは市役所に残ってみせる。澤井とも約束したからだ。


 一緒に回っていた事務所の女性、相馬がリストを取り出す。


「次は、東部老人会連合会長さんとお会いできますよ」


「そうか」


 女性は好かない。だがこういう場合、女性のほうが機転が利くことも知っている。40後半の相馬はふくよかなお母さんタイプだが、槇のサポートを十分にこなしてくれる人材であった。


「お昼はどうしましょうか、槇さん」


「相馬さん、悪いね。今日は抜きで。お腹空いた?」


「いいえ。見てくださいよ。この体型。一食抜いたくらいではへこたれませんよ」


 自分の体型を自虐ネタにできるくらいだ。女性というよりは、同志という感じで、槇は気兼ねなく彼女と一緒に行動できた。


 ——あいつに会っていないな。どうしているだろうか……?


 ハンドルを握り、田舎道を走りながら槇はため息を吐いた。プライドを崩して頭を下げることなんて、どうでもいいことだった。だが、我慢できないのは


 選挙戦で忙しくなってくるこの時期。自宅に帰る余地は一つもない。安田の自宅に寝泊まりし、寝る間も惜しんで彼と選挙戦についての話をしたり、電話を掛けたりと忙しい。


 ——早く決着したい。そして、あいつのところに戻りたい。


 槇はそんなことを考えていた。



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