03 市役所の帝王


 自分の手の中にある一枚の紙を見て、槇は目を見開いた。それから、目の前に座っている大柄で邪悪なオーラを放つ男——澤井を見つめる。彼は愉快そうに口元を歪めて槇を見ていた。


「票集めは順調ですかな?  槇さん」


「回るべきところには、回っていますよ。みなさん、笑顔で歓迎してくれますね」


「それは喜ばしいことだ」


「しかし選挙は、蓋を開けてみないことには、わかりませんからね」


「そんなものは、選挙だけに限られたことではないだろう。絶対という言葉は、この世には存在しないのだから。しかし、あなたがやらなければならないのは、その絶対を現実の物にする事だ。選挙は勝たなければ意味がない。一票だって足りなければ、ゼロと一緒だ」


「そんなことは知っています」


 槇はじっと押し黙る。澤井は槇の手にある紙に視線をやってから、鼻で笑った。


「そこにある団体は、おれがなにかと世話をしているところだ。おれの名を出せばいい顔をして対応してくれることだろう。まあ、その中でどれくらい票を集めることができるかは、あなた方しだいだがね」


「澤井さん。あなた……いいんですか?」


「約束しただろう? おれは、あなたのことを面倒みると」


「しかし——」


「バカな槇さんには、驚いてしまうようなネタでしたかな? それとも、そんなにおれのことが信用ならない、とでも?」


 ——また、バカにして。


 槇はむっとした表情を見せてやるが、澤井などに通じるわけもない。澤井はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべていた。


 澤井は、槇よりもずっと長く生きていて、ずっと社会を知っている。自分が、彼の足元にも及ばないことは、重々わかっていることなのだ。だが、ただ言われっぱなしも癪に障る。そういうことだ。 


「手を組むと約束しましたよね? もう少しあなたの心の内を明かしてもらえませんか」


 槇は「降参だ」とばかりに肩を竦めて見せるが、澤井は相変わらず意地の悪い笑みを浮かべたまま肩を竦めた。


「心の内もなにも。その紙切れがおれの意思である」


「信じがたいことです」


「はて? なにを信じるのか、なにを信じないのかは、あなたしだいですよ。槇さん」


「しかし」


「それを使うのか、使わないのかも合わせて、全てをあなたにお任せしますよ」


 槇はその紙を握りしめた。彼の手前、素知らぬ振りを見せたいところだが、正直に言えば、この情報は喉から手が出るほど欲しい情報でもあるのだ。そんな槇の心中を知っているくせに、余裕の笑みを見せてくる澤井が、また憎い。澤井は、どんな局面でも優位性を発揮する。この世の中には、強者と弱者がいるのだ、ということを見せつけられるのだ。


 早く中身を確認して、相馬と回りたい——。焦燥感に駆られている槇とは裏腹に、澤井はソファにもたれ、優雅な様子で世間話をし始めた。


「この時期、いくら時間があっても足りないくらいですね。事務所に泊まり込みですか」


「致し方ないことです。安田を選挙で勝たせる。それが私設秘書としての私の仕事ですからね。ずっと安田のところに世話になっていますよ」


「ほほう。それはさぞかし寂しい思いをされているのではないか」


 澤井がなにを言いたいのか、槇にはわかる。野原とのこと言っているのだ。


 彼は、槇と野原が同居していることを知っている。いや、二人の関係性についても、誰よりも知っているに違いない。槇が話したわけではない。野原もそうだ。だがしかし。市役所内のことで、澤井が知らないことなどないくらい、彼の元には計り知れない情報が集まって来る。


 どこの業界でも同様のことであるが、この世界もまた、握っている情報量で勝負が決まる。職員のプライベート情報まで掌握している澤井が勝者になるというのは、当然のことであった。


「今回の選挙戦は、野原には関係のない話だ」


 野原のことを話題にされるのはおもしろくない。嫌悪感を見せるが、澤井は気にすることもなく、ただ笑っていた。全くと言っていいほど槇のことなど相手にしてはいない証拠だ。


「前回の選挙戦では安田が圧倒的に優位だった。なにせ、対抗馬がカスだったからな。しかし、今回はそうはいかない。今回の対抗馬は、農水省OBだ。農協は息巻いているぞ。安田下ろしだ、と。農協を抑え込めるかどうかが勝敗を左右する。さあ、槇さん。かなり分が悪い闘いのようだが、起死回生の策を隠しているんでしょう? あなたも人が悪い。少し教えていただけませんかね」


 ——策なんてあるわけないだろう……。農協は、いくらアプローチしても、門前払いだ。


 安田は農業分野が疎い。子育て、福祉、観光。そういった分野の施策は強く推し進めてきた。ところが、農業については、当たりさわりのない施策ばかりを展開してきた。その不平や不満が、ここにきて一気に表面化してきているのだ。今回、安田不利——と言われる要因は、そこだ。


 農家も後継者がおらず、高齢化している。一般的に見ても、選挙で投票率がいい世代は高齢者たちだ。農家を味方につけられないというのは、安田にとって、かなり不利な戦局だ。


「先日、農協へアポを取りつけようとしたんですが……」


「体よく断られたのだな」


「よくわかりますね」


「農協の次長が言っていたぞ。安田は推さない。安田関連の申し出は全て断っている、とね」


「そこまで知っているなら、なんとかしてくださいよ」


 澤井は笑った。


「公務員は選挙活動は禁じられているのだ。残念だな。公務員でなければ手伝ってやれたがな」


 ——情報をこうして寄越しているくせに。なにを今更……。絶対、楽しんでいるだろう。


 槇は頬を膨らませて見せると、澤井はにやにやと意地の悪い笑みを見せた。


「安田不利という噂は流しておけばいい。対抗馬たちには油断させておけ。みな高を括っているだろうよ。その間に、こちらは、せっせと票固めでもしておくがいい。今のところとれる起死回生の策はそれに尽きる。ああ、それから——」


 澤井は思いついたように声色を変えた。


「今までの選挙戦とはわけが違う。市長、そして槇さんご自身も、身辺で揚げ足を取られることないように注意されたほうがいい」


「それは……」


「ですから。大事なものは隠しておいたほうがいいですよ。我々ですら嗅ぎつけられるんです。あなたと野原の関係性。十分に注意されたほうがいいと、忠告申しあげているのです」


「雪が巻き込まれる、とでもいうのですか」


「念には念を入れるということですよ。別にそうだとは、言っていないでしょう」


 槇は両手を握りしめてから、澤井を見る。


「私はこっちで忙しいんだ。あいつが巻き込まれないようになんとかしておいてくださいよ」


「それをおれに依頼するのか?」


 澤井は「愉快」と笑い声をあげてから、ソファのひじ掛けを軽く叩いた。






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