05 涙


 喧嘩なんてしたことない。人を傷つけたくないなんていうのは都合のいい言い訳だ。本当は自分が怖いから。臆病だからだ。


 だけど野原を独占したい思いは、我を失わせるくらい強烈な思いだったのかもしれない。

 横沢の腕に掴みかかって、野原から引き離す。弾かれたように飛ばされた野原にかまっている暇はなかった。すぐに横沢が槇の肩をつかんで引き寄せ、そして、拳で槇の頬を殴ったからだ。


 体格でも経験でも、横沢に勝てるはずはない。槇はあっという間に吹き飛ばされて、そばの机と椅子に体を投げ出された。

 床に転がった野原のところに駆け寄った蛭田ひるたは、「横沢!」と彼を制止するかの如く叫び声をあげたが、そんなもので止まるなら、最初から喧嘩などにはならない。口元を拭って顔を上げると、横沢が掴みかかってきた。


「お前のことは嫌いじゃねーよ。そのずるいところも、全てひっくるめてお前だって思っていたからな。だけど、あんまり卑怯だからよ。お前が一番、せつのこと傷つけているのわかんないのかよ?」


 横沢の言葉はその通りなのだ。


 ——そうだ。おれは、味方をしている顔をして、避けてきた。全てあいつのせいにして。一番卑怯なのはおれだ……。だけど。


 だからと言って、横沢にみすみす渡すわけにはいかない。


「知っている」


「じゃあ、なんで」


「横沢! おれと雪との関係は、お前にはわかんないだろう。だけど、おれはお前に雪を渡すわけにはいかない」


 槇は体を起こしてから、横沢に果敢に挑む。どうせだめだということは理解している。だけど譲れないことってあるのだ。今まで逃げてきた自分の不甲斐のなさを償うかの如く、槇は何度叩きのめされても横沢に向かっていった。


実篤さねあつ!」


 雪の声が空っぽな教室に響く。

 もう何度目だろうか? 思い切り吹き飛ばされて、そばの机や椅子に体が衝突した。


 その衝撃よりもなにより、槇は雪の声に衝撃を受けた。彼の大きな声は聞いたことがなかったからだ。視線を向けると、深緑の瞳は涙がこぼれそうなくらい潤んでいた。


「生徒会長にお前の今までの悪事を全てぶちまけてやんぞ。そしたら、お前、生徒会になんかいれねーよな? いいザマだぜ。おれたちを裏切るからだぞ」


「裏切ってなんかいない。……おれはただ。こいつを傷つけられることだけが、耐えられないだけだ」


 槇の言葉に腹が立つのだろう。横沢は槇を引きずり倒すと、彼の上に馬乗りになって、拳を振り上げた。


 喧嘩というよりは槇が一方的にやられている構図に、蛭田も野原もどうしたらいいのかわからない様子で固まっていた。

 間に入る隙もないくらい、二人のプライドがぶつかっていたのかもしれない。


「実篤……ッ」


 野原の力ない声が耳に届いた瞬間。


「なにをしているんだ!」


 教室によく通る声が響いた。一同は声の主を見つめる。入り口に立っている男は梅沢中学の現生徒会長の真島まじまだった。


「一体なんの騒ぎ? 校内での暴力行為は見過ごすわけにはいかないね」


「会長! 槇実篤って男は、どうしようもないクズですよ? そんなの生徒会に入れて、いいんですか? こいつ。おれたちと一緒に、今まで——」


 ——終わった……。今までの苦労は水の泡か。でもいっか。雪が無事なら。


 槇は大きく肩で息をする。もうあちこち痛むし、血の味もするし、自分は死ぬのか? なんて思ってしまう。


 だけどふと頬に冷たい感触が触れた。腫れ上がって、うまく開かないまぶたを持ち上げてみると、そこには野原がいた。彼は今まで見たことがないくらい、不安そうで、心配そうな瞳で槇を見ている。


 ——ああ、嘘だろう? お前、泣くの?


 涙がこぼれそうな瞳を見て、なんだか人事みたいに笑ってしまった。血で濡れている親指で、それを拭った。自分の悪事は暴かれた。生徒会になんて金輪際、関わることもできないだろうけど、それでもいいのだ。生徒会に入るのが目的ではない。野原雪との時間を取り戻せればいいだけの話だから。


 自力では起きることもままならない体を、床に預けていると、生徒会長の声が響いた。


「槇のことは全て承知の上だ。それよりも、今回の件。槇は手を出していないみたいだし。これは正当防衛として報告させてもらいます。君たちみんな、後日、処分を言い渡します。それまでは謹慎処分です」


 真島の言葉に、そこにいた四人は黙り込んでしまっていた。


 ——手を出していないのではなくて、出せなかったんだ。


 心の中で真島の言葉にツッコミを入れてから、自嘲気味に口元を緩めた。





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