04 昼休みの邂逅
「課長。お茶どうぞ」
女性の明るい声に顔を上げると、文化課総務係長の篠崎女史が立っていた。彼女はいつものように、肩下までのふんわりした髪を揺らし、にこっと笑みを浮かべていた。
「篠崎さん」
「お弁当、おすみですか? おさげいたしますよ」
目の前のお重を見下ろして、彼女は頷く。
「ありがとう」
「いいえ。どういたしました」
彼女はお弁当を持ち上げて怪訝そうな顔をした。
「課長、また食べていないんですか? 昼食食べないと。元気でませんよ」
「ありがとう。でも、食べたくない」
「まあまあ」
心配そうに去っていく彼女を見送って、野原はじっとしていた。
市役所での昼食を摂るには、いくつもの方法がある。自宅から弁当を持参する者、売店で購入する者、外に食べに行く者、そして、オフィス弁当の宅配を依頼する者だ。
槇は調理が下手。野原も調理はできない。もともと、食に対する興味がないわけでもないが、合理的な方法がいい。野原はまとめて宅配を利用していた。
そもそも家事をしない母親の元で育った。家庭の味は好きだが、既製品の味には飽き飽きしているおかげで、こうして大して口をつけることなく下げてしまうことがほとんどだった。
そして、今日は特に食欲はない。いつもなら食べ進められるお菓子ですら、食べたいとは思わなかった。
昨晩の槇との邂逅が頭から離れないのだ。珍しいことだ。どうして、何度もあの場面が脳裏に繰り返されているのか、野原には意味がわからない。本当はショックを受けているということに気が付いていないのだ。
時計を眺めて、まだ時間があることを確認する。このまま座っていても仕事がはかどることはないと判断し、廊下に出てみることにした。
元々、息抜きという概念も持ち合わせていない男だ。正直どうしたらいいのかわからなかった。
廊下に出てみると、なるほど。大変賑やかで驚いた。
「休憩時間って……休み時間」
なんだか小学校の頃の昼休みを思い出した。野原は昼休みが大好きだった。図書室に行けるからだ。本当なら、授業も失くしてほしかった。先生の話を聞くよりも、活字で勉強したほうが頭に入るからだ。先生の話の意図がよくわからない。だから退屈な時間だったのだ。
足早に通り過ぎたり、談笑しながら通り過ぎたりする職員たちを眺めながらゆっくりとした足取りで廊下を歩む。
文化課は東棟にある。そこを中央棟に向かって歩くと、反対側の西棟から大柄な目つきの悪い男が歩いてくるのが見えた。
——副市長の澤井。
槇が下ろそうと画策していた男。野原は直接彼との面識はなかった。相手も同様だろう。そう思い、別段避けることもなくその場に立ちつくしていると、ふと澤井と視線が合った。そして、澤井は少し方向を変えたかと思うと、野原の目の前に立った。
「文化課長の野原
低く響くような声は、そう大きくないのにも関わらず野原の腹に響いた。
「はい。副市長」
彼はそう答えた。澤井は「ふうん」と言ったかと思うと、野原の足先から頭までを舐めるように見回した。その視線の意味が野原にはわからないが、明らかに興味の対象であると言っているようだった。
「槇から聞いている。——懇意にしているそうだな」
——懇意?
野原は首を横に振った。
「そんなことはございません。槇とはただの顔見知りです」
「ほほう。そうか? 職員台帳の住所は、槇と同じになっているようだが?」
「そうでしょうか? ではそれはなにかの間違いではありませんか」
上から来る鋭い視線に応えるかのようにまっすぐに見返すと、澤井は瞳の色を緩めた。
「お前は面白い目の色をしている」
「生まれつきです。目の色は日照時間と深い関係性があるようです。私も詳しくは分かりませんが眼科医の母からそう聞いております」
「なるほど。お母さまは医者か」
「はい。入り用でしたら、紹介いたします」
野原の回答に澤井は笑いだす。
「いや、これは……」
彼がなぜ笑うのか野原にはわからない。余計なことを言うのは得策ではないと黙っていると、彼はひとしきり笑ってから野原を見た。
「いや。槇は抜けているバカな男だが、お前は肝が据わった賢い男だな。——なぜ槇のようなバカと一緒にいる? お前はもっと賢い。いくらでもいい人間がいるはずだが?」
「わかりません。副市長のおっしゃる意味がわかりかねます。申し訳ありません」
澤井は野原が最後まで白を切る気だと理解していたのかも知れないが、本当のところを言うと、澤井の意図がくみ取れないのは事実だ。はっきりと言ってもらわないとわからないのだ。
「面白い男だ。気に入ったぞ」
「それは……ありがとうございますということでしょうか?」
「そうだな。——お前は、槇のしでかそうとしていることを黙認しているのか? それとも協力しているのか?」
「……槇のしたいこと……でしょうか?」
「そうだ。おれの大事なものに手を出す。おれはそういうのが一番嫌いなのだ。お前は賢いから話がわかりそうだ。いいか。槇に言っておけ。これ以上好き勝手なことしたら、おれも黙ってはいられないとな」
「そのままを伝えればよろしいのであれば、そういたしましょう」
「本当にお前は……ああ、そうか?」
澤井はふと野原の腕を掴まえたかと思うと、そのまま引き寄せる。距離が近づいた。
「お前は感情が鈍いのか? おれがこうして引き寄せてもたじろぐこともしない」
「感情が……鈍い?」
——初対面に近い澤井がそこに気が付くとは。やはり侮れない男。
「私は、人の気持ちに疎いようです。いや、察することができても意味がわかりません。それは職務に問題があるでしょうか?」
「いや。ない。むしろ好都合。そのうち、お前のことは引き立ててやろう。槇のことを抑え込んでおけよ」
澤井はぱっと腕を離すと嬉しそうな笑みを浮かべて立ち去った。取り残された野原はそのまま彼を見送った。
——澤井には、
そこまで考えてはったとした。
「なに? これ。これって……心配?」
——自分は実篤を心配しているのだ。
そう自覚すると、なんだか心が落ち着かなくなった。野原は「いつもしないようなことをするものではない」と言いきかせて、自分のデスクに戻った。
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