03 野原家

 


 野原りんは内科医だった。現在の就職先は県立の医科大学。持前のアクティブさと、よく話す気さくさ。


 更に健康的な肌色と、父親似のぱっちりとした目元は愛嬌がある。そのおかげで彼女は中高年の教授連中に可愛がられていた。


 女性で医師として活躍するには、いかに男の嫉妬を抑えられるかだ。少々控えめに、だが美味しいところはちゃんといただく。そういうしたたかさが彼女には備わっていた。周囲から見れば母親が医師で裕福層にみられがちな環境で育った彼女だが、現実は孤独。


 祖父母に面倒をみてもらい、兄は読書三昧。母親は仕事でほとんど自宅にいない。そういうものが、今の彼女のしたたかさを作り上げていったのだった。

 

 教授からのメールを眺めて、彼女は悪態をつく。


「もう、またこんな無理難題押し付けるんだから」


 同居人である母親は、まだ帰ってこないだろう。リビングのテーブルの上には、我が物顔で凛のパソコンや医学書の資料などが乱雑に置かれていた。同業である母親からすると、こういう振る舞いは当たり前のことで、特に咎められることもない。家中が女医の暮らしやすいようになっているだけの話だ。


 彼女はパソコンを立ち上げながら資料をめくり、身に着けていた服を脱ぎ始める。どうせ男なんて一人もいない家だから、どこで脱いでも気にはしない。


「どれどれ」


 メールを確認しながら、ごそごそと服を脱いでいくと、突然に玄関が開く音が響いた。一瞬、驚く。


 ——母親じゃない? 


 緊張をして動きを止めていると、顔を出したのは兄のせつだった。


「ただいま」


 彼は無表情だが、疲労の色が濃い。呆然としている凛を余所に、野原は「今日から少し上に住むから」とだけ言って二階に上がっていった。


「は、はあ……」


 事の次第を理解しようと目を瞬かせていると、すぐに今度は母親の声が聞こえた。


「ただいま~。凛~。疲れた。ごはんは?」


「ちょ、ちょっと」


 凛は慌てて玄関先に走っていく。


「なによ。そんな恰好で」


 玄関先に腰を下ろしている彼女は、半分脱ぎ掛け状態の凛を見て笑った。


「いやいやいや。お母さん。それより、これ!」


 彼女は玄関に揃えられている兄の靴を指さした。


「え?」


「雪、帰ってきたよ。突然。しばらく二階に住むって」


「え? あつくんは? どうしたの?」


「さあ……喧嘩じゃないの」


「喧嘩はいつもだけど……帰ってきちゃったのは初めてかもね」


 二人は顔を見合わせてから二階に視線を向けた。


「大丈夫かしら?」


「どうだろう?」




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