02 人間らしさ


「野原はね。自分で思っている以上に、いろいろな思いを胸に秘めているんだと思う。それに気がつかないと。きっと野原が抱えているその気持ちは、永遠に相手に伝わらない」


「伝わらない?」


「そうだよ。どんなに親しくても……家族でも。ちゃんと気持ちは口にしなくちゃ、理解してもらえないものだ。黙っていて誰かが察してくれるなんてことは現実的に不可能なんだ。おれも家族がいるけど、妻とは対話が必要だと思っている。長年一緒にいるとね、なんとなくわかっている、わかってくれているだろうが増えていくものだ。だろうという曖昧なものほど危ういものってないんだよ。それが積み重なっていって大きな齟齬そごに繋がってしまうことが恐ろしいんだ」


齟齬そご……」


「どんなに小さいことでも言葉にしなくてはいけないんだよ。野原には苦手なことかもしれないけど、自分の心に思い浮かんだ言葉はすぐに口に出せるだろう?」


 丸眼鏡の奥の優しい瞳は、野原を見守ってくれている。心のざわざわが少し落ち着いた。そうすると、自分の気持ちのモヤモヤとしたことが見えてくる気がした。


「思い浮かぶんです。だけど意味がわからないんです」


「意味なんていらないよ」


「しかし」


 水野谷は日本酒を一口あおった。


「言葉はどんなに正確に伝えようとしても、受け取る側の問題があるんだ。同じ言葉を二人の人に伝えたとしても、相手の受け取り方は同じにはならない。それは受け取る側が、自分の都合のいいように解釈をするからだ。——わかる? だから、そんなことまで野原が悩む必要はない。思っていることを話す。それだけ。相手がどう受け取るのかは、また別の問題な訳」


「——なるほど」


「喧嘩するほど仲がいいってね。きっと相手は野原の大事な人なんじゃないの? そしたらなんでも話してみればいいじゃない。逃げて話す機会を失ってはいけないよ。永遠にわかり合えなくなる。違うかな?」


 水野谷の言葉はよくわかる。だから野原は、彼と話をするのが好きだ。野原の悩みを瞬時に理解して答えてくれる彼を尊敬しているのだ。


「水野谷課長のおっしゃる通りだと思います。諦めるってことは、もう話合う機会を失っているということですね」


「そういうことだよ。人は超能力者じゃないからね。相手の心の内なんてこれっぽっちも理解できない。理解している気になっているのは、相手が合わせてくれているからだ。それは親しくなればなるほど、相手に合わせることになる。だからお互い知っているつもりになってしまうんだよね」


 ——本当にその通りなのかもしれない。


「もう三十七年も一緒にいます」


「え? ずいぶん長いね……って、野原って何歳?」


「三十七です」


「それってどういうこと?」


 水野谷は苦笑した。しかし野原は話を続けた。


「多分、一緒にいる時間が長すぎて、お互いがお互いのことを知っているつもりなのだと思います。——ああ、相手はわからない。だけどおれはそう……」


 語尾が小さくなる。コップに手を添えて水面に映る自分の顔を見ていると、水野谷が笑った。


「しかし。人の気持ちがよくわからない症候群の野原が、知っているつもりになれる相手ってすごいね。三十七年間も一緒って生まれてからずっとでしょう? 家族なのかな。そうだと思うけど。だったら、やはりちゃんと話しないとね」


「そうです……ね。——でも」


「おやおや。野原が躊躇ためらうなんて珍しいね。これはこれは……相当、大事な人と見た」


「大事——。大事なのでしょうか? ずっと一緒にいすぎて、なんなのかよくわからないのです。家族でもない。友達でもない——」


「恋人?」


「恋人……?」


「好きなんでしょう? 大事なんでしょう?」


「好き……。大事……。大事は大事」


「きっと特別なんだよ」


「とく、別……」


 ——実篤さねあつは特別? 確かにそうかもしれない。


 野原はそう思った。家族よりも同じ時間ときを過ごしてきた。自分のことをよく理解してくれているのは槇だった。いつも黙っていても、ある程度のことを理解してくれていた槇だからこそ。まったく話が通じないのがショックだったのだ。


 自分には伝えたいことがあった。槇に知ってもらいたいことがあった。


「野原は可愛いね」


 水野谷の手が伸びてきたかと思うと、頭を撫でられた。水野谷の手のひらは大きくて温かい。なんだかまた涙が零れた。


「一人で頑張ってきたんだ。誰にも相談できないでしょう? 野原は」


「相談……。はい」


「なんでも相談してよ。おれはいつでも野原の話を聞けるよ。だって可愛い後輩じゃない」


「可愛い、後輩……」


 戸惑って呟くと、水野谷は「さて、今晩はどうする?」と尋ねてきた。


「うちに泊めてもいいけど。どうする? その様子だと出てきちゃったんでしょう?」


「……はい」


「ちゃんと仲直りして明日には戻らないと」


 水野谷はそう言うが、野原の気持ちはまだ揺れていた。そのまま首を横に振った。


「野原?」


「課長。あなたの言葉はよく理解しました。だからこそ、仲直りはまだしたくない」


「え?」


「ただ、ごめんなさいをしても意味がないのだと思ったのです。多分、きっと。この件でおれたちはずっと同じことを繰り返す気がするんです」


 ——そう、多分。ちゃんとしないとダメなんだ。そして、それはきっと。おれだけの問題じゃないのかもしれない。


「野原……」


「でもよくわかりました。どうしたらいいのか、正直わかりません。でも、考えてみます」


 野原の言葉に、水野谷はにっこり笑顔を見せた。


「野原は変わったね」


「そうでしょうか」


「うん。なんか人間らしくなってきた」


「人間らしく……?」


「ああ、ごめんごめん。悪い意味じゃないよ。野原のキャラクターだしね」


「キャラクター?」


 疑問符だらけになっている野原に、水野谷は余計に笑う。


「うんうん。いいね。いいよ~。みんなに好かれるキャラになってきたじゃないの。おれが見込んだだけのことはある。自信持っていいんだよ? 野原はね。本当は人の気持ちをよく理解できない自分が嫌なんだろう?」


いや——? きらいってわけではないですけど……でも、みんなに迷惑をかけているんだろうなって思っています」


「ほらほら。マイペースで無表情なくせに。案外、気遣い症なんだから。疲れちゃうよ。そういうの。ね? どれ送っていこうか。実家にでも帰るかい?」


「あ……そうですね」


「もう。なにも考えていないんだから」


 正直、飛び出してきたのはいいものの、行く当ては考えてもみなかった。水野谷に指摘されて、初めて気が付く。


 実家にはまだ自分の部屋がある。本はすべてマンションに持って行ってしまったが、寝る場所くらいはあるのだ。


 ——そうだ。実家に帰ろう。


「課長。今日はありがとうございました」


「ううん。本庁にでもいるならもっとマメに見てあげられるけど。悪いね。おれも嬉しかったよ。野原とこうして飲むの久しぶりじゃない。また来ようね」


「はい」


 水野谷が店主にタクシーの手配を依頼しているのを見ながら、野原は日本酒を一気にあおった。






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