第五幕

01 諦めた気持ち


 一人夜の街に出ると、心がざわざわとした。


 ——この気持ちはなに? さみしいってこと?


 ずっと一緒だった。だからこうして飛び出してきてしまうと、どうしたらいいのかわからなかった。


 今までにも喧嘩のようなことは何度となく経験してきた。今回のような具合だ。槇が怒り出して、野原は黙り込むだけ。そして勝手に怒った槇が、勝手に謝罪をしてきて、そして野原がよく理解しないままに収まる。正直にいうと、槇の独り相撲みたいなものだ。


 しかし、今回は違っていた。野原にも意思がある。


 ——どうしてだろう。実篤さねあつと話をしていたら、急に胸がキュンと締め付けられるみたいに苦しくなった。


 昼間、田口と話した時は、「いつものこと」と思いながら話をした。いつも通りに槇が泣き喚いて大騒ぎするだろうと彼に言った。その時は、それでいつものように収まるのかと思っていた。


 しかし、違ったのだ。


 ——なんなんだろう。これは……。


 胸がチクチクするのは気のせいではない。頬を流れる温かいものに気が付いて指で触れてみる。


「涙?」


 泣いているのか。自分は。


 ——なぜ? 悲しいのか?


 だけど槇のところに戻りたいと思わなかった。戻りたくないのだ。仲直りもしたくなかった。それは槇が嫌いになったのではない。


 ただ——なんだかわからない、言葉にできない心のざわざわが邪魔していた。


「野原? ——野原じゃないの?」


 ふと自分の名を呼ぶ人がいることに気が付いて顔を上げる。そこには、スーツを着たサラリーマンの男が数名立っていた。


 その中の一人——見知った顔の男が野原の元にやってきた。


「どうしたの? こんな遅い時間に。一人で。しかも、なにかあった?」


 相手の男は心配そうに野原の瞳を覗き込んだ。


水野谷みずのや課長……」


「課長、どうしたんっすか~?」


 水野谷と一緒にいた集団は、よく見ると星音堂せいおんどうのメンバーのようだ。今日、施設内を案内してくれた星野の顔が見えた。


「ああ、悪い。お前たち先に次の店行け。おれはもう帰るから」


 水野谷はそう言うと星野にお金を渡して、さっさと立ち去らせた。


「大丈夫です。おれは、大丈夫です」


 野原は首を横に振るが、彼は真面目な顔をして「一人はよくないよ」と言った。それから彼に連れられて、近所の小さな居酒屋に入った。時間的にちょうど客の入れ替えだったのだろうか。カウンターの一角がぽつんと開いていた。野原はそこに座らされた。


「飲む?」


「あの……」


 答えを濁す野原の様子を見て、水野谷は「冷二つ」と店主に声をかけた。店内は焼き鳥の香ばしいにおいが漂っていた。しかしお腹が空くことはない。いや、空いているのかもしれないが、なにも感じなかった。


「はい」


 水野谷は野原にハンカチを手渡した。


「涙。拭いたほうがいい」


「すみません」


 ごしごしと目元を拭いても、なんだか涙があふれてきた。


「嫌なことあった? 仕事? それともプライベートかな」


 目の前に置かれたコップの日本酒を眺めて、野原はじっとしていた。なにか話さなくてはいけないのに、言葉がうまく出てこなかったのだ。


「野原が仕事でヘマするなんて考えにくいもんね。プライベートかな?」


「……わかりません」


 正直な感想だ。隣にいた水野谷は軽く口元を緩めたかと思うと、日本酒に手を着けた。


「よくわからなくて涙が出るときってあるもんだよね。うん」


「——いつもの喧嘩とは違うんです。だけど、なにが違うのかわからないんです」


「喧嘩?」


 水野谷は微笑を浮かべて、野原を優しい目で見ていた。


「野原も喧嘩するんだ」


「言い合いはしません。相手が一方的に怒るだけです。いつもはそう。一方的に怒って、そして急に謝ってきて一人で終わる感じ」


「ああ、そういう人っているよね」


 ——いるんだ。実篤さねあつが特別じゃない。


 野原はそう理解する。


「でも今日は違ったの?」


 水野谷の問いに、野原は頷いた。


「今日は……どうしてだろう。おれが話をするのを諦めてしまった」


「諦めた?」


「ええ。そうです。なんだかこれ以上、何を言っても聞いてもらえないんじゃないかって思って——」


 ——そう。そうなんだ。


「野原は、その相手の人に自分の気持ちを知って欲しかったんだね」


「え? 自分の気持ち。そうなのでしょうか……?」


「そうだよ。必死に伝えたかったんでしょう? 自分の気持ち。だけど激昂している相手は多分、余裕がないもんね。きっと君の気持ち、言葉に耳を傾ける準備はできていなかったんじゃないかな?」


 あの時の槇は余裕がなさそうだった。追い詰められていたのは理解していた。昨晩の失態は、彼なりにショックだったに違いない。だからこそ、料亭であんなことになった。あの時、野原は槇のやるせなさを受け入れたはずだった。


 だが今日の田口との邂逅で、自分とは違った価値観があるということを知った。そして、その価値観は自分たちの成長に大いに役立つのではないかと気が付いたのだ。だから話をしたのに。やはり、まだまだ未熟な槇には、その場で受け止める度量はないだろうという野原の予測は当たっていた。そこまでは予想通りだったのに。


 ——なぜだろう。


 槇と話をしていて感じた、あの『諦めの気持ち』とは、一体なんなのだ——?





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