13 天岩戸


「そうだ。こんな不正に加担させて、潰すつもりなのか? 澤井に目をつけられた職員は酷い目に遭う。おれがその典型例だ。野原課長が大事なら、わざわざあの人に手を出すのはやめた方がいい。澤井は徹底的に野原課長を潰しに掛かる男だ。おれや田口のことを見たらわかるだろう?」


 『田口』とは保住につき従っていた職員か。槇はふと、昨晩の田口の様子を思い出していた。


「君は田口くんを随分と信頼しているのだね」


「当然だ。あいつはあいつの実力でやっている。おれが擁護しないといけない、なんてタイプでもないし、そんなことは望んでいない。おれがあいつを守るなんて、ことは思っていない」


「おこがましい、か」


 自分が野原を守りたいという気持ちは、おこがましいというのか。確かに昨晩の敗因は、保住に責められている野原を助けようと口を挟んだことで、自分たちの関係性を保住に晒してしまったことも一つだ。


 野原のことになると我慢できないのだ。保住が信頼している田口という男は、いくら槇が保住と言い合っても、口を挟むことなくじっと座っていた。

 確かに忠犬。主の指示なしには動けない忠犬。


 いや——違う。膝の上で握りしめられていた拳は、声を上げたくてもじっと耐えていたに違いないのだ。それは、保住を信頼しているからこそ。心配で仕方がないのに、じっと耐えて押し黙っていたのだろう。


 ——自分はどうなのだ?


 野原のこと、よく分かっていないくせに。野原雪という男は、人の気持ちが分からなくて、人づきあいも下手で、槇が側にいないとダメで……。


 ——本当に?


 自分が側にいなくても野原はすっかり市役所職員としてやっているではないか。


 ——じゃ、おれはどうしたらいい?


 自問自答していると、ふと保住の声が耳に入ってきた。


「槇さん、野原課長の仕事ぶりをちゃんと見てあげないと。それはあなたにしか出来ないことだ」


 ——見ている。見ているだ。なのに自信がない。保住のほうが雪のことを知っているというのか?


 槇は動揺していた。生まれてからずっと、野原の一番の理解者は自分であると思っていたのに、目の前にいる男は自分の知らない野原を語るのだ。目の前がちかちかとしている気がする。眩暈がした。


「では、失礼いたします」


 礼儀正しく頭を下げて市長室を出ていく保住を見送って、槇は「お疲れ様」と呟いた。



***



 昼間の会合の後、保住に指摘された言葉が脳裏から離れない。


『野原課長の仕事ぶりをちゃんと見てあげないと。それは、あなたしかできないことだ』


 ——見ていないとでも言うのか。そうだ。のだ。


 痛いところを突かれて、気持ちが揺らいでいる。彼を守るなんて言っておいて、肝心なところを見ていないだなんて、浅はかだ。昨晩の失敗と、保住の指摘とで心が大きく揺れ動いていて、どこを向いたらいいのか定まらない。


 野原にどんな顔をすればいいのだろう。まったくもってダメダメで、もうグダグダ。不甲斐ない。情けない。野原に甘えたい気持ちでいるのに、後ろめたい気持ちもあって、思うように動けなかった。


 だが時間はどんどん過ぎて行く。帰らないわけにもいかない。仕方なしに自宅に足を向けた。時計の針は十時を回っていた。野原は帰っているだろう。「ただいま」と声をかけながら中に入ると、野原はソファにじっと座っていた。


せつ?」


 違和感。


実篤さねあつ


 鞄を下ろして、じっと野原を見つめると、彼は瞳の色を濃くした。


「澤井下ろしはやめる」


 彼はそうきっぱりと言い切った。


「な、なに?」


「今、言った通り。澤井下ろしはやめる。おれたちには、経験も人脈も足りない。まだ太刀打ちできない」


「そ、そんなことは分かっている」


「じゃあ……」


 野原が自分の意見に背くようなことを言ってきたのは初めてで、動揺していた。心がぐらついていたのに、まさか野原までそんなことを言い出すなんて……。


「な、なんでそんなこと……急に」


「今日、田口たぐちと話した。驚いた。あいつは、保住が好き。保住が間違ったことをしようとしたら全力で止めるって言ってた」


「おれは、間違ったことなんて……」


 ——澤井下ろしに執着しても、なんの意味もなさない。もっとうまい方法を考えるんだ。


 頭の中では知っているくせに、真っ向から否定されると、言い訳が立たない。わかっているくせに。知っているくせに。槇は野原の話を素直に聞くことができなかった。


「実篤。おれたちは未熟。まだやらなくてはいけないことがたくさんある」


 ——そんなこと、知っている。


「実篤の叶えたいことはおれも叶えたいと思ってきた。同じ考えならいいのだと。でも違った。田口はそうじゃないって」


「田口、田口って、なんだよ? それ。あんな犬みたいなやつの言うことを聞いて、おれの言うことはきけないっていうのか?」


「言うことを聞くとか聞かないの問題ではない」


「そういう問題だろう?」


「おれは……」


 野原の口にする言葉は正論なのだ。自分が間違っているって、知っているのに。

聞き入れてくれない野原に対して、苛立ってもただの八つ当たりだって知っているのに。ただ、人の言葉を受け入れられるスペースが見当たらない。


 澤井の強かさ。保住が持っているもの。昨日からダメなことばかりで、心が折れそうだ。


「もう、いい。雪は、おれの意見に賛同してくれないってこと? おれのこと、ダメな人間だって言いたいんだろう?」


 そんな質問は無意味。子どもが駄々を捏ねているようなものなのに、止められないだなんて、本当に浅はか。ソファに座っている野原は、じっと槇を見つめ返すだけ。


「雪!」


 なにか言って欲しい。半分、懇願するように野原を見る。彼に見捨てられたら、槇には誰もいない。縋るように野原の服を掴んだ。


「雪、頼むよ……」


 拒絶しないで欲しい。全て受け入れて欲しいのだ。しかし、野原は軽く息を吐いた。


「……お前の叶えたいことは、おれの叶えたいこと。それは変わらない。だけど、やり方が」


「やり方ってなんだよ! お前までおれのことを非難するのか?」


?」


「そうだよ。みんなそうだっ! 澤井にバカにされて、保住にもバカにされて……、お前までおれのことを否定するのか?」


「否定はしていない」


「嘘だっ!」


「実篤……っ」


 珍しく野原は声を大きくしたが、槇は受け入れられない。


「どうせ、お前もおれのこと、バカで、ドジで、どうしようもないクズだって思っているんだろう!?」


「違う。そんなんじゃない」


「雪はおれのこと、ちっともわかってないっ!」


「実篤」


 野原の制止を受け止められない。後ろめたいからこそ、分かっているからこそ、こうして野原にまでキッパリと言われてしまうと心が悲鳴を上げた。


「おれは、お前のためにやったんだよ! お前を守らなきゃって、ずっと昔からそればっかりで……っ、なのに、なんだよ? 保住たちの味方するのか?」


槇の言葉に野原の瞳の色は、濃くなって、それから色褪せた。


「雪……?」


 激昂していた気持ちが一瞬で萎える。


 ——なに、それ?


「実篤。もう、いいよ」


「な、なんだよ。それ。おい!雪?」


 槇がすがるように手を差し伸べても、野原が応える事はない。押し黙ってしまった野原はもうなにも答えない。彼はソファから立ち上がると、そっと部屋から出て行った。

 

 追いかけようと思っても、届かない。意気地なし。届かないのではない。——怖くて手を伸ばせないだけじゃないか。


 玄関が閉まる音がして、一人取り残された槇は、じっとその場に座り込んでいた。



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