02 興味の対象
——昨日は散々。
結局、保住を誘い出して自分たちの味方に引き込むという槇の作戦は大失敗。しかもそのまま料亭でなんて、いつも平坦で起伏のない彼の感情でも、流石に虫の居所が悪いようだ。
——ああ、お菓子が食べたい。
野原はじーっと引き出しを眺めた。彼は三度の飯よりもお菓子が好きだった。お菓子を食べていると心が落ち着くのだ。本当は活字が欲しい。
『本を読みたくて仕方がない衝動をどう抑えるのか?』
それは社会人になった野原の最大の課題でもあった。当初は業務に関するあらゆる活字を読んで気を紛らわせた。しかしそれもすぐに限界が来る。そうしたときに発見したのが『お菓子』だった。こそこそと少しずつ食べている行為も、昇進と共に大胆になるものだ。
前職では、最終的にお菓子が手放せなくなった。口うるさく注意してくる輩には、お菓子を渡しておけば多少は大目に見てくれることも学んだ。
しかし文化課に配属されてから、いまだにお菓子を食べるという行為を封印しているのは、槙にきつく咎められているからだった。
——まだ課長になったばかりなんだ。お菓子なんて食べているなよ? なめられるぞ。
「そうは言うけど……」
こっそり少しだけ隠している引き出しの中にあるチョコレートが気になって仕方がない。野原の場合、お菓子を食べているほうが、集中力が上がって効率的に業務が進むのだ。コーヒーを飲んだり、たばこを吸ったりして気分転換をしている職員と同じようなものだ。引き出しにしまわれているお菓子たちを想像するだけで、心がドキドキする。
——食べたい……。
そんな衝動に駆られ、一人で葛藤をしている状況だが、周囲から見たら彼は、じっと引き出しを見つめているだけ。そう、野原の見た目は微塵も変化がないのに、心の中は嵐のような葛藤が起きている。それが野原を無機質でAIロボと言わしめる理由だ。なにも感じていないわけではない。感じていることが表に出ない。そして、それの意味がわからない。
少しイラついた気持ちでいると、ふと保住に視線が止まった。
彼は昨晩遅かったせいなのか寝ぐせがひどい。いや、遅くなくともいつも寝ぐせはひどいのだが……。今日はいつになく頭頂部の髪が跳ね上がっていた。
「保住」
さっそく名前を呼ぶと、彼はいつもにも増して不機嫌極まりない表情でやってきた。
「おはようございます。なんでしょうか? 課長」
機嫌の悪そうな人間にあえて突っかかっていく必要はない。しかし、課長として服装の乱れについて無視するわけにはいかなかった。野原は保住の頭を指差した。
「服装や身なりの乱れは困る。なんだ、その頭は」
保住は野原を冷ややかに見つめてきた。普通の人間だったら嫌な気持ちになるのだろう。しかし野原には関係ない。ただじっと彼を見上げた。保住は野原をまっすぐに見つめたままぶっきらぼうに答えた。
「これのどこが乱れだと言うのです?」
「なに?」
——乱れじゃないって、どういうこと?
野原は目を瞬かせた。
「お洒落に決まっているではないですか。野原課長。お洒落に疎いとは知りませんでしたね」
保住の声は大きい。総務係や文化財係の職員がくすっと笑い出すのがわかったが、野原は困惑した。
「お洒落?」
——そっか。そういうお洒落があるの? いやいや。どう見てもお洒落には見えないけど。
「あまり流行を知らなすぎるのはよくない。品格を疑われますよ。いつまでも昭和気取りではね」
保住はさも筋の通った話し方をする。
「田舎くさい見てくれはよくないですよ。野原課長」
田舎臭い見てくれと、お洒落の違いがわからない。野原は考え込んでしまった。そして周囲は、保住の意見に賛同しているように見受けられた。
「少しくらいいいよな」
「課長は厳しいんだよ」
「お洒落にしたっていいじゃない」
そんな言葉が耳を突くが、野原は首を傾げた。みんなが自分を非難するような目で見ていたとしても、全く気にならない。野原は自分の中での結論を出すと、真っ直ぐに保住を見据えた。
「お洒落とは気の利いた服装のことをさす。おれは、その寝ぐせが気の利いた髪型とは思えない。それこそ、お前の品格を落とす。忠告してやったが、そう言い張るのであればそのようにしておけ。戻っていい」
野原の回答に保住は面白くないなさそうに視線を逸らして頭を下げた。
「ありがとうございます」
戻っていく保住の後ろ姿を見ながら、「あれがお洒落……」と何度か呟いた。
保住という男は優秀だ。部下たちに囲まれている。どんなに難しい案件でも顔に出すことなく、飄々とこなす。野原は彼に興味があった。槇のような無粋なことを抜きで。
確かに、副市長である澤井から何度も電話が来ているのは知っている。一係長宛てに、部長、次長、課長を飛び越して連絡が入ることは絶対にないはずなのに——だ。
しかし彼は澤井には大した興味を示していない。むしろ、保住が大事にしているのは……。彼の隣に座っている部下の田口という男だ。
見た目は大型犬。身長は一九〇センチメートルを超えているのだろうか? 少し屈んで出入口を通っている姿は、気の毒にも見える。ラブラドール犬みたいに、体が大きいくせに目が優しい。いつも保住に付き従って熱心に仕事に取り組んでいる。他の職員にはないような、素直さが見て取れた。だからなのだろうか。野原は純粋に保住と田口に興味があった。
お菓子のこと、保住や田口のことを考えてぼんやりとしていると、別室いる事務局長の佐久間が顔を出した。
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