02 野原雪
「槇さんではないですか。いや、髪型が変わると別人のようですね」
「保住……」
「課長ですか? お呼びしましょうか」
保住のことだ。本気でやりかねない。槇は彼の肩を掴まえて、彼を引き戻した。
「なんですか」
「いや。おれがここにいたことは、
「そうおっしゃるなら、そういたしますけど」
そう約束してくれた保住の言葉に少しほっとした。
「すまない」
そんな槇の様子を見ていた保住は苦笑した。
「槇さん。そんなに気になるんですか? 課長のこと」
「べ、別に。そんなんじゃ……」
彼は漆黒の瞳を細めて艶やかに笑う。
「大丈夫ですよ。よくできた課長です。みんなに好かれています。今もなにやら盛り上がっていますけど……やはり、どうです? ご一緒に」
——盛り上がっているとは、どういうことなのだ? 雪は一体、職場でどんな仕事をしているのだろうか。
槇は知らない。知りたくでも知ることができない。同じ屋根の下で働いているというのに。少し陰った顔色に気がついたのか、保住は口を開いた。
「課長は職員の気持ちの変化にいち早く気がついて、すぐに声をかける。だけど多分、その気持ちがどういうものなのか、よくわかっていないからズレるんですよね。そうでしょう?」
「そうだ。あいつは、人とのコミュニケーションの機会が極端に少なかったおかげで、相手の変化には敏感なくせに、その意味がわからない。経験値が足りないのだ」
「でも、槇さんと一緒にいる課長は、ずいぶんと人間らしいですよ」
「そうだろうか」
保住は悪戯に笑った。
「おれもどちらかと言えば、課長タイプ。まあ、田口と知り合ってから、色々と学んでいる最中ですよ」
「お前たちは本当に信頼しあっているのだな」
槇は保住のいつも隣にいる大型犬のような男を思い出した。
あの料亭の時も、緊張していたくせに、必死に保住のためと堪えている姿が印象的だった。野原があの男に心動かされるのも肯けた。自分もそうだからだ。
「大事にしろ。お前たちはこれから否応なしに、いろいろなことに巻き込まれる」
槇の言葉に保住は目を見開いてから笑う。
「それは槇さん。あなたもでしょう?」
——保住はどこまで知っているのだ? 自分が澤井と手を組んだことを、感づいているというのだろうか?
いや、そんなはずはないと槇は視線を伏せることなく、彼を見据えた。
「立場的にそうでしょう? 来年は市長選だ。野原課長もなかなかの立場になってきている。大切な人、手放さないようにされた方がいいですね。おれなんかよりもあなたたちの関係は危うい」
保住はそう続ける。
「どんな時でも仲違いせぬよう。お気をつけください」
「忠告か」
「いいえ。心配しているのですよ」
「心に留めておこう」
槇の返答に満足したのか、保住は艶やかな笑みを浮かべたかと思うと、槇の腕をがしっと掴んだ。
「なっ」
槇の制止など関係ないかの如く、保住は文化課の扉を強引に開け放った。
「課長! お客様ですよ!」
「ま、待て! 保住っ」
強引に連れ込まれた事務室。野原はチョコレートを抱えて、田口のところに立っていた。
「
ぼんやりとしていた野原の瞳が光を増す。
——嬉しいって思ってくれたのか? 迷惑じゃない?
「す、すまない。特に用事ではないのだが……」
田口の周囲にいる職員たちは保住の部下だ。確かに、先日、野原が言っていた特徴に合致している職員ばかりだった。
眼鏡をかけたどら焼きみたいな男。隣にいるのは、理科室の骸骨模型みたい。お馴染みの田口はラブラドール犬もとい、土佐犬。そしてまた、その隣の男は長身でスマート。スーツ売り場に立っているようなマネキン人形みたいだ。野原の見立ては正しい。思わず吹き出した。
「笑うなんて、どういうことです?」
後ろからぴょこんと顔を出す保住は、確かに野良猫。寝ぐせは少しはマシになっているが、なにせ恰好がだらしがない。血統書付き猫のくせに、薄汚れた野良猫だ。
「お前たち、なんの話だ」
保住の問いかけに応えたのは田口という男。
「係長の肉じゃがは120点です、とお伝えしたところ、課長がぜひ食べたいと目を輝かせて言うものですから……作るのはおれじゃないので、直接係長にお話ししてくださいとお伝えしていたところです」
「お前の肉じゃが食べたい」
野原は保住に言った。保住は苦笑いだった。
「いいですけど……あんまり期待しないでくださいよ。槇さんの料理のほうがいいのでは?」
「え! おれは……」
「槇のは、焦げていて食べられない」
「焦げてって、やることはやるんですね」
「おれは料理なんて……っ」
そこに篠崎も加わる。
「あら、私の肉じゃがのほうが美味しいに決まっていますよ。野原課長」
「篠崎さんの卵焼きは美味しい」
「じゃあ、篠崎係長にでも作ってもらってくださいよ」
保住は早々に辞退するという
「でもってなによ? 保住くん。ああ、そうですか。私に負けるのが嫌なのね!」
「負けるとか勝つとかの問題ではないじゃないですか」
「あらやだ。保住くんにも苦手なことってあるのねえ」
篠崎は挑発がうまい。彼女の言葉は負けず嫌い精神に火を付けたようで、保住は眉間にしわを寄せて篠崎を見据えていた。
「いいでしょう。明日、お弁当作ってきますよ。課長、どちらが美味しいか決めていただきましょうか」
「どちらが格上か勝負よっ! 美味しい肉じゃがを作った人が、野原課長独り占めですからね!」
篠崎の宣戦布告の内容に、そこで初めておかしな話に乗せられたと気が付いた様子の保住は、いきなり及び腰になる。
「いや、おれは別にそういうつもりじゃ」
「まあ! 逃げる気? この腰抜けめ」
「篠崎さんっ、ちょっと言い過ぎだよ」
現場の混乱に耐えかねて埋蔵文化財係長が間に入るが、全く治る気配がない。槇は唖然としてみていたが、思わず吹き出した。
「実篤」
野原は『いい迷惑』とばかりに槇を見た。
「雪、お前。楽しそうだな」
「楽しい……? これが?」
「ああ。なんだか、今、中学生やっているみたいじゃん」
「そう? おれの青春は今?」
真面目な野原の横顔を眺めて、槇は嬉しい。
——簡単なことだったんだ。雪のこと、理解するのって。こうしていつだって一緒にいればいいじゃないか。
「雪。今日一緒に帰るぞ」
「何時?」
「そうだな。これから外勤だから、七時には帰れる」
「わかった。待ってる」
口元を緩めて、その瞳は嬉しそうに槇を見た。それだけで槇の心は満たされた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます