終幕
01 バカでも賢くなれる
数日後。槇は副市長室のソファに座っていた。
「なんだ、槇さん。あんた、髪型変わるといい男だな」
槇の目の前には、澤井が背もたれに体を預けて座っていた。両膝に握られた拳に力が入るのがわかる。
「そうですか」
「ああ、どういう風の吹き回しか? いや、いいと思いますよ」
短く切られて黒く染められたその髪は、なんだか中学生以来で気恥ずかしいものだった。
「それよりも、先日のお話ですがね」
「おお、そうだ。お返事か?」
「はい。あの、ぜひご協力させていただきます」
澤井は槇をじっと眺めていた。
「決められたか」
「ええ。おれも腹を括りました。おれにだって成し遂げたいことはあるんだ」
「だろうな。見ていればわかる」
彼は口元を歪めてから身を乗り出した。
「ただね。槇さん。この道を選ぶってことは、これからの道は平坦ではないのです」
「澤井さんほど、なにもかも捨てて成し遂げたいものがあるかと言われると、そうではないかもしれない。だけどおれにだって、この人生をかけても守りたいものがあるのです」
「それは結構」
槇の返答に彼は愉快そうに笑っている。
「あなたの願い、おれの成し遂げたいことと一緒に全てひっくるめて面倒みてやろう。おれは約束は守る男だ。しかしよく決心なされた。なにがそうさせたのか?……恋ですかな」
「恋だなんて。そんな子どもみたいな」
澤井の言葉に心が乱されるのがわかる。しかし彼は相手にする気もないのか、自分だけの言葉なのか。
「恋をすれば愚かになる。しかしその逆もある。賢くなられるのがよかろう」
「澤井さん?」
少々ぼんやりとしていた瞳に光が戻る。彼は苦笑した。
「おれはどっちかと言えば愚かになる。ただ、いつもバカなあなたは賢くなられるようだ」
だから、すぐ「バカ」と言うな! と槇は内心ムッとしたが、もう慣れたことだ。
甘んじて受け入れよう。それが自分の持ち味らしい。
「では、これから外勤なので」
「これからもよろしくお願いしますよ。おお、そうだ。例の人事の件はおれが潰しておいたから問題ないです」
——例の人事の件?
「一体……」
「野原
澤井の口から野原の話が出るのは好ましく思えない。この邪悪な男が、野原に視線を向けたというだけで嫉妬してしまうからだ。
「一体、あなたは」
「いえね。悪い意味はない。これからパートナーとしてやっていくのだ。あなたのことは色々と知りたいものでしょう?」
澤井はにやりと口元を歪めた。
「なかなか興味深い雰囲気を持っている。目の色はあれは生まれつきと言っていたな。——槇さん、気が気じゃないでしょう? ずっと誰の目に触れさせずに囲っておきたいのではないか?」
——なぜわかるのだ?
「そんな顔をされなくても大丈夫ですよ。なにもするつもりはない。おれは見境がないわけではない。自分の大事なおもちゃはひとつと決めている」
「——保住、でしょうか」
「そうだな」
じっと見据える槇の目を見返す澤井は副市長としての厳しい視線だった。
「おれは
「……しかし、今のあなたは吉岡さんと手を組んでいるように見えますが」
「それは利害関係で一致するものがあるからだ。あいつとは保住を擁護するという点でだけ合意が得られている」
「保住を擁護する——か」
確かに、吉岡は保住の父親の後輩だ。彼が保住を擁護したいという気持ちはよくわかる。そして澤井もだ。そこの部分だけが合致しているということ。逆を言えば——。
「それ以外の部分では対立しているということだ。ただそれだけの話だ。槇さんには、細かい職員の内情を知ってもらう必要がある。今後は様々な情報の共有化を図っていきましょう」
「澤井さん。——あなたは安田市長を下ろす意向があると聞いている。なぜ私に声をかけたのですか。去る者の関係者など必要ないのでは?」
槇の問いに、彼は堂々たる佇まいで答えた。
「ですから、先にも言ったでしょう? おれの人生をかけて成し遂げたいことは、もっと大きな枠で考えなければいけないことなのですよ。槇さん。安田市長の続投もこれから次第。それに、もしかしたらあなたが次期市長に手を上げるかもしれない可能性はゼロではない」
「それは——ないですね。おれが次期市長にならなければならないときが来たら、きっと迷わずここを去ることを選びます。なにも野原と同じ職場にこだわっているわけではないのでね」
——そうだ。そこ。そこにこだわるから辛くなる。雪と一緒にいられる時間はどこにいてもとれるはずだ。現にこうして同じ屋根の下で仕事をしていても、自分は雪のことをよく理解できていないじゃないか。
「そういう野心はないのだな。結構、結構。おれに取って代わろうという野心がない人間が一番信用できるものだ。槇さんとは仲良くやれそうだ」
澤井は軽くひらひらと手を振って、槇を見送ってくれた。
——これでいいのだ。
自分はそう決めたのだから。軽く膝が諤々としているのがわかるが、そんなことはなかったかのように、強引に歩みを進めた。
なんだか野原の顔が見たくなって、自然と文化課へと足が向くが自分が顔を出すわけにもいかない。どうしたものかと思案していると、文化課振興係長の保住と鉢合わせになった。
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