08 腹を括る
その日は無断早退という失態を野原にさせてしまったのは反省だ。さすがに課長職がそれではまずい。
あれから何度となく彼の中で果てた。無理させたのは重々承知だが、自分の不安を解消するためには、彼とのつながりが必要なのだ。ここ数日抱え込んでいた不安を解消するかの如く、何度も——だ。
気を張っていた野原は、眠り込んでしまった。実家に帰っていても、そう寝ていなかったのかもしれない。離れている間、野原がどんな思いで暮らしてきたのか分からないが、彼もきっと、心痛めてくれていたのだろうか?
寝入っている野原をベッドに残し、そのまま職場に連絡を入れた。定時過ぎてしまった。
——誰か残っているのだろうか?
正直今更という気持ちになるが、野原のことを考えると、一応念のために連絡を入れておいたほうがいいと思ったのだった。
『はい、文化課の篠崎です』
あいにく、電話口に出た人間は篠崎だった。槇はバツが悪くなったが、仕方がないとあきらめた。
「槇だ。昼間は大変失礼をいたしました。野原は体調が悪く、早退させました。緊急でしたので、申し訳ない。事後報告になってしまって……」
電話口の篠崎は心配そうな声色だった。
『課長のお加減はいかがでしょうか? 私のお弁当で体調を崩されたのではないかと心配しておりました』
——そうだった。この女。弁当で雪を誘惑しようとしていた。
槇は嫉妬心を燃え上がらせたが、彼女は淡々としていた。
『野原課長の件はすべて処理済です。早退する旨を局長にもお伝えしておきました。その件はご安心ください。それよりもお大事になさってください。槇さん』
——あの昼間のランチ女か。総務係長の篠崎。抜け目がない。やはり侮れない。
正直、彼女の機転のおかげで大事にならなかったのだ。感謝しなければならないはずだが、槇は素直に喜べなかった。
——女性の抜け目なさは侮れないのだ。要注意。
人事権はないが、本気を出せば、それなりに圧力をかけられるはずだ。
——あの女。雪に手を出したらただじゃすまないぞ。
槇はそんな嫉妬心を丸出しにした。
しかし意外だ。野原は、生まれてこの方、女性に興味を示したことがなかったのに、まさか、ここにきて女性の手を握るだなんて。
——起きたら問い詰めないと。
野原がいない時間は、自分にとったら辛いだけのものだった。ずっと一緒だったから。自分の隣には彼がいて当然だと思った。
だが当然ではないということも理解した。
野原は変わってきている。子どもの頃の陰気な暗い読書好きの男の子ではないのだ。陶器のように白い肌。すらっと伸びた首筋。完全に白緑色になった瞳。他の誰とも相入れない雰囲気は気品がある。
「変わったんだ。
——綺麗になったんだ。子どものままの自分とは違って。
まっすぐに自分を求めてくれる気持ちも、守りたいと思っていてくれたなんて。
守られるだけの彼ではないってこと。
「おれも変わらなくちゃいけないんだ」
澤井の言葉。
保住の言葉。
今まではどれも突っぱねて、受け入れるなんてことしたくなかったのに。今は違う。
「おれには足りないものだらけだ。使えるものは使う」
そう、強かに生き抜かなくてはいけないのだ。
「来年、市役所を去るだって?」
——冗談じゃない。そんなことをしてたまるか。
「おれは、しがみつく。今の地位にしがみついて、そして、」
——雪を守る。
権力が欲しいなんて、軽々しく口にしている自分は浅はか。澤井には学ぶべきことが多々ある。あの男の成し遂げたいものがなんなのかわからない。だが、あの男は本気だ。命をかけても成し遂げようとしているのだ。
自分はそこまで腹を括ることができていなかった。
——腹を括る。
たったそれだけのこと。しかしそれは途方もなく、重いなにかを背負うことになるのだ。
「いい。やってやろうじゃないか」
開け放たれたカーテンの外は暗くなり出している。窓ガラスに映った自分の顔は、そう悪くないじゃないか。
「は、おれでもこんな顔できんじゃん」
自画自賛をしていると、寝室から自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
「ここにいる」
そう言いながら寝室に顔を出すと、毛布の間から白い腕だけが出ていて、自分を探すかのように辺りを探っていた。
「雪」
大人になったと思っても、こういう仕草は小学生の頃のままだ。口元を綻ばせて、ベッドに腰を下ろしてからその手を握る。
「いる。ここにいるぞ」
槇の感触に安堵したのか、野原はひょこっと顔を出した。
「
「寝ていろよ。眠いんだろう」
「……うん」
「疲れているんだ。ごめん。おれのせいだな」
「土下座……」
「お前ねえ。いいじゃん。謝ったんだし」
「土下座」
「あのねえ……」
「嘘。別にいい」
ふふと笑みを浮かべた野原の頭をそっと撫でてあげると、彼は満足したように瞳を閉じた。
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