04 嫉妬




 翌日。槇は職員のデータベースを検索していた。昨日の「篠崎」という女性が気になったからだ。


 彼女は、教育委員会文化課総務係長だった。年齢は41歳。女性で係長を担うとは、なかなかだ。


 野原を見る彼女の目は、恋しているみたいだった。

 自分よりも、彼女のほうが野原を幸せにしてくれるのではないか?

 

 そんな気弱な考えがないわけではない。しかし、37年間、彼の側にいたという自信が槇をなんとか保ってくれる。データベースを閉じて、ため息を吐いた。


実篤さねあつ、今日は帰ってもいいんだよ?」


 はっとして顔を上げると、叔父である安田が自分を見ていた。


「市長……いや、叔父さん」

 

 結局、昨日は野原に会うことは叶わなかった。仕事の帰り道、自分の心の整理もついていないままに野原の実家のチャイムを押したが、誰も出てこなかった。


 野原家は、母親も妹も医者で忙しいとは聞いているが……。野原も残業だったのだろう。誰もいない暗い家を見上げてから、ため息を吐いて帰宅したのだった。


「体調が悪いんじゃない? ここのところ、ずっと塞ぎ込んでいるようだ」


 やはり、安田には見抜かれている。槇は首を横に振った。


「大丈夫です」


「そうは見えないけど。午後からは庁内執務しかないから、金成かなりくんにでも頼める。ゆっくり休んだ方がいいと思うよ。ここのところ、なにかと忙しいじゃないか」


 安田は、槇の動きを知っているのか? 最後の言葉が意味深だ。


「すみません。余計なことばかり、ですね」


「そんなことはない。私のことを思ってくれているんだろう?」


 彼は細い瞳を更に細めた。


「世の中には、攻めに出る時と、待つ時があるものだ。急く気持ちがあるのも確かだけど、静観するのもまた一つ。大丈夫。全てを預けているわけではないよ」


 彼は「澤井にかしずいているわけではない」と言いたいのか?


「叔父さん」


「それよりも、せつと喧嘩しているんじゃないかい? 早く仲直りしなさい。いいね?」


 片目を瞑って笑う安田は、市長の顔ではない。槇の叔父の顔だ。二人は小さい頃から一緒であるため、安田も野原のことはよく知ってくれていた。

 

 澤井の言いなりに成り下がったのではない。彼は彼なりに考えているのだ。しかも全盛期より衰えたとはいえ、やはり槇の今の力よりは絶大なるものを握っている人だ。


「ありがとうございます」


 槇は頭を下げて市長室を退室した。



***



 昼のチャイムが鳴った。槇と会わなくなって一週間以上が経った。こんなに長く顔を見ることもないのは初めてで、どうしたらいいのかわからなかった。


 ——伝えなくてはいけない。自分の気持ち。


 だが心に浮かぶ言葉はどれも曖昧で、一体なにを伝えたらいいのかわからないままだったのだ。


「課長」


 明るい篠崎の声に顔を上げると、彼女はお弁当を手にしていた。


「ちゃんとお約束のお弁当、作ってきましたよ。ここではなんですから、ラウンジに行きませんか?」


 笑顔の篠崎に誘われるようにラウンジに足を運んだ。彼女はなにか下心があるのかもしれないが、野原からしたらそのままとしか捉えてはいない。篠崎という人間が、野原にお弁当を作ってきたという、たったそれだけだのことなのだ。


「篠崎さんはお母さん」


 お弁当を目の前にして、野原はそう感想を述べる。


「課長のお母さまじゃありませんよ。もっと女心を理解しないと。本当にお嫁さんなんてきてくれませんからね」


「お嫁さん……」


 ——実篤がお嫁さん? ……似合わない。


 というか。なぜそこで槇が頭に浮かんだのか。野原は首を傾げた。


「ささ、食べましょうよ」


「いただきます」


 手を合わせてからお弁当の中を眺める。焼き鮭、卵焼き、ミニトマト、カボチャのサラダ……。白ごまのふられた白いご飯はつやつやとしていた。


「いつもなにを食べていらっしゃるんですか? お菓子ばかりではいけませんよ。そう若くはないんですから。そろそろご自分の健康のことを気にかけていかないと……」


 篠崎はお説教のようにつらつらと話す。しかし、ふと言葉を切った。


「——課長?」


「え?」


 顔を上げると、篠崎は心配そうな表情をしていた。


「あの、大丈夫ですか」


 ——なにが?


 野原は目を瞬かせて篠崎を見つめると、彼女はそっと手を伸ばし、それから手に持ったハンカチで野原の頬に触れた。はったとして視線を下ろす。


「あの、美味しくないですか? すみません。そんな泣いちゃうくらいまずいなんて……」


「まずくない……え?」


 お弁当と箸を置いてから、目元を拭う。


 ——涙……?


 槇と喧嘩別れした夜みたい。自分でも気がつかないのに涙が零れてくる。


「あの、課長」


「ごめん。篠崎さん。美味しくないんじゃない。——どうしてだろう? なんだか」


 篠崎の卵焼きは甘くて心にじんときた。それよりなにより。なぜか、あの槇が作った焦げた料理を思い出したのだ。


 ——実篤はどうしている? ちゃんと話しなくちゃいけない。実篤と。


 急に彼が恋しくなったのだろうか。不可思議な感覚に、胸がぎゅーっと締め付けられて辛い。息が詰まりそうになった。


 ——実篤に会わなくちゃ。


せつっ!」


 幻聴かと思うくらいのタイミングで槇の声が耳を突いた。はっとして顔を上げると、彼は険しい表情で隣に立っていた。


「……実篤……?」


「お前、——ちょっと、来いよっ!」


「な、仕事中……」


「仕事中って……っ」


 彼は野原の目の前に座っている篠崎をきっとにらみつける。彼女は一瞬、驚いた表情をしていた。野原は咄嗟に思った。


 ——彼女を巻き込んではいけない。


「実篤。離して」


「お前……っ。ちょっと来いよ」


 槇は怒りを押し殺すように低い声色を吐いた。


 ——なにを怒る? なんで? 怒りたいのはこっち。


 野原はそう思うが、彼は構う事なくつかんでいた手に力を入れて野原を引っ張った。


「来いよ」


 人の多い場所で騒動を起こすのは不適切と判断する。それから、篠崎に謝罪した。


「篠崎さん、ごめん」


「課長!?」


 強引に引き寄せられてラウンジから出る。心配そうな篠崎の顔が見えたが、それに構っている暇もない。野原は槇に手を引かれて廊下に連れ出された。






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