第六幕
01 脅し人事
彼が出て行ってから、数日が経過してしまった。
大きくため息を吐く。仕事が手につかないというのが正直なところだ。安田は気がついているようだが、特になにか言ってくるわけでもない。それがいいのか悪いのかはわからないが、放っておいてくれるのは叔父の優しさなのだろうと理解し、受け入れる。
あれから、日本神話の本を読んだ。
野原を連れ戻すには、どうしたらいいのだろうか? きっと実家に帰っているはずだ。実家まで押しかけて、「ごめん」と頭を下げれば許してくれるのだろうか……。
——わからない。
もう何日も野原の顔を見ていない。日本神話みたいに、野原の自宅の前でダンスでも踊ればいいのだろうか?
「んなわけあるか」
くだらない妄想を抱えて悶々としてしまう。頭を抱えていると、誰かと内線で話をしていた安田が大きくため息を吐いて受話器を置いた。
「困ったことになったな」
「どうされましたか」
安田がこんな弱った顔をするのはあまり見たことがない。槇は心がざわざわとした。彼は大変言いにくそうな顔をして槇に視線を寄こした。
「
「どうされましたか」
「野原を……。
「え——?」
槇は耳を疑った。
「だ、だって。星音堂は配属されたら戻ってこられない……流刑地と呼ばれている部署ですよね? なぜ雪を?」
「さあ。なんだろうね。なんか嫌がらせなのだろうか。
「……あの男」
これは警告だ。早く自分の味方をする返事を寄こせということなのだ。
「弱ったね。僕が直接、雪の人事に介入すると、きっと実篤とのことも探られかねない。立場上、静観するしかない。なんとか澤井くんにお願いして……」
「おれが直接行ってきます!」
槇はむかむかする気持ちを抑えきれずに廊下に飛び出した。後ろで安田がなにか言っているのが聞こえたが、そんなものは無視だった。
***
槇は副市長室の扉を蹴り飛ばして入り込む。書類の山に埋もれている澤井は、槇の登場に苦笑した。
「おやおや。どうされましたか。槇さん。血相を変えて」
「市長から聞いた!
澤井は眼鏡を外し、それからくつくつと愉快そうに笑った。
「市長は人事に口出しはできませんよ。槇さんも然り。お立場を忘れて取り乱すなんて……これは一興」
「……っ」
後先考えない性格が祟った。槇は我に返ったが、もう遅い。澤井は書類を置くと、立ち上がってから槇を応接セットに促した。
応接セットとは名ばかりの書類が山積みの事務テーブルの様相だが……。
「そう心乱してはいけませんよ。いい大人でしょう?」
「……どうせガキだ」
澤井はソファに背中を預けると、槇を言い含めるかのように声色を和らげた。
「久留飛からの忠告だろう。槇さんを抱き込みたいのでしょうな。あいつは次期市長に安田の続投を推進している」
「だったら、こんな脅迫まがいのことをしなくとも、協力するのに……」
「しかしあなたは惑っておられるのだろう? なかなか返答もない。しびれを切らしているのでしょうな」
「澤井さん……ずいぶんと詳しいな。あんたの差し金か」
槇の言葉に、澤井は呆れた顔をした。
「やはり、あんたはバカで浅はか」
「う……」
——バカとかガキとか、本当怒る気にもならないな。
「しかし、そうは言うが。当の本人である野原は、この話には乗り気らしいではないか。本人が良しとしているものに、我々が口を出す必要性は見出せないが」
「え? 雪が……? 星音堂に異動を受け入れているというのか?」
「そうだ。そう聞いている。『尊敬すべき水野谷課長の後任は自分が勤めたい』と話しているそうだが。——おやおや。本人に確認してはいかがかな? それともお話できない事情があるのか?」
愉快そうに笑うのは止めて欲しい。自分だって聞けるものなら聞きたい。槇は黙り込んだ。
「——聞けるものなら聞いている」
「ほほう。喧嘩中とは。無駄な時間を使うものですな」
「無駄だと?」
槇はむっとして澤井をにらむ。しかし、彼は動じることもなくにやにやと笑みを見せた。
「無駄だろうが。早く仲直りされたほうがいいのではないか? 絶対という言葉はこの世には存在しない。確固たるものにするには、努力が必要である。努力を怠ったつけは、自分自身で支払うことになるのだぞ」
「澤井さんに、なにがわかるというのです?」
しかし澤井は、ふと表情を陰らせた。
「おれは痛いくらい、何度もそんな思いをしてきた。この年になって後悔しても遅いものだ。若い奴らはそんなことも理解していない。みなそうだ。槇さんも然りだな」
「——あなたは、一体……」
彼は思いを馳せていたが、ふと瞳の色を戻してから表情を変えた。
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