03 英雄ができるまで



 それから数日後。野原のはらから内線が入った。彼から直接、連絡が来るのは珍しいことだった。


『保住は鼻が効く。そろそろ釘を刺してもいいのかも。今晩、話しをする段取りをつけた』


 ——これは好機。

 

 野原が与えてくれた好機だった。


「今晩、いつもの料亭を予約するから。そこで保住と交渉しよう。……一人でくるかな」


『さあ。わからない』


「まあいい。頭の切れる男だ。こんな込み入った話をする場所に、誰かを連れてくるとは思えない。せつもくるだろう?」


『あっちも一人なら、実篤さねあつも一人で行けばいいじゃない』


「冷たいね。雪」


『二対一なんて、卑怯』


「い、いいの! おれが話すから。雪は黙って座っていればいいだろう? それなら一対一」


 ——どこがだ?


 そんな意味合いの沈黙の後、『じゃあ、後で』と内線は切れた。

 

 ——今晩、保住と交渉ができる。山場だ。


 まきは自分に言い聞かせるように頷いてから受話器を置いた。すると安田が心配そうな表情をして槇を見ていた。


「実篤」


 彼が自分のことを名前で呼ぶ時は、市長ではなく「叔父モード」の時だ。


「なにか問題でもある?」


「いえ。大丈夫です。すみません。雪からです。仕事のことではないので、心配しないでくださいよ」


「そう?ならいいんだけど……」


 安田はそうい答えると、槇のデスクに置いてある本を眺めた。


「日本神話。実篤が本を読むなんて見たことなかったな。そんなに面白い?」


 正直、そんなに読み進められていないのだが……。


「叔父さんは知っていますか」


「それはね」


「あの、須佐男スサノオって知っています?」


「ああ、もちろん。八岐大蛇ヤマタノオロチを退治した英雄だろう?」


「英雄、なのでしょうか?」


 槇の質問に安田は笑う。


「まあ、英雄に成長する前は散々だろう? 大人になったって、母親恋しくて大泣きだし、天照アマテラス天岩戸アマノイワトに隠れてしまったのも、彼が悪さばかりしていたからだ。なかなかのうつけだろう?」


「そ、そんな奴なんですか?」


「あれ? 読んでないの?」


 野原は昔、自分のことを『須佐男スサノオみたい』と夢現で言っていた。だから、どんな男なのかと借りてみたのに……。


「最悪な男じゃないですかっ」


「そんなに怒らなくてもいいだろう?」


「すみませんっ」


 安田に八つ当たりをしても仕方がないと思いつつも、むうむうとしてしまった。


「どんな英雄も、最初は未熟。色々なことを経験して大きくなるものだよ。信念を持って成し遂げたからと言って、全てが完璧とは言い難いじゃないか。私だって、市長の椅子には座ったけれども、妻には頭が上がらないのは知っているだろう?」


 槇の脳裏には、安田のことを足蹴りにする叔母の悪い顔が思い浮かんで苦笑するしかない。


「いつもは強行な澤井くんだって、繊細な部分がある」


「え! 副市長がですか?」


少し想像できないが……安田は彼のことを知っているのだろうか?


「彼との付き合いは、十年以上にもなるしね。彼は、今の地位に上り詰めるのと同時に、色々なものを失ってきた人だ。不幸ばかりの人生は苦行だが、人生を彩るのは幸せばかりではないだろう? 色々な経験をした人ほど、人の気持ちもわかるものだよ」


 安田はニコニコっと槇を見た。


「私はお前にこの席を継いで欲しいと思っているんだ」


「おれは、……そんな器ではありませんよ」


「そうかな?」


 ——澤井を下ろしたからどうなるというのだ?


 そんな疑念に囚われるものの、それ以外の方法なんて思いつかない。澤井を下ろし、来年の市長選で安田を再選させるのだ。澤井が「安田市長の時代は終わった」と語っていると聞いる。あちこちに顔の利く澤井の鶴の一声は大きいのだ。


 澤井が安田の対抗馬を推すようなことになったら……安田は惨敗するだろう。市民の尊い一票なんて、たかが知れている。欲しいのは、まとまった組織票なのだから。


「叔父さん。もう一期、市長が務まるように、おれがなんとかしますから」


「実篤」


「大丈夫です。なんとかします」


「しかし」


「ですから、そんな弱気なこと言わないでくださいよ。あなたは、梅沢の顔だ」


 槇の視線に安田は、少々驚いた顔をしてから笑顔を見せた。


「ありがとう。実篤」


 ——そう。澤井を下ろすのだ。









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