02 独り占め


 そんなまきの気持ちの変化に気がついているのかいないのか、野原のはらは「どうするの?」と尋ねてきた。


「普通に仕事をしていればいい。保住との関わりもいつも通りだ。余計なことはしなくていい。ただし、澤井との絡みは見ていて」


「わかった」


「できる? 忙しいだろう。課長は」


「課長って思ったほど忙しくない。そんなの簡単」


「それって、せつだけだろう。課長はみんな忙しいんだ。現場の責任者だ」


 首を傾げる野原は真面目な顔をしたままだ。冗談ではないらしい。


「本当、お前。そんなこと口が裂けても言うなよ? 浮くから」


「浮くってなに?」


「だから。……もういいや。普通に仕事していろ」


「わかった」


 素直にうなずいた野原を見て、槇は思う。

 やはり昇進するのは当然なのかも知れない。課長の仕事は、市役所の中では激務だ。現場の決済権限者であり、現場の報告を経営幹部に上げる役目がある。

 更に、苦情の対応、議会の対応、人事管理のこと……課長が担う業務は一般職員の比ではないのに、それを「思ったほど忙しくない」と言い退けるのだ。


 なんだかもどかしく思えた。同じ建物の中で仕事をしているのに、自分は野原の仕事ぶりを見ることも、知ることもできないだなんて。


 逆にまったく違う仕事でもしていればよかったのかもしれない。そうすれば割り切れるものだからだ。距離的に近しいが故に、感じる歯がゆさだった。


「それにしても、こんな写真まで寝ぐせ……」


 野原は槇の心中など知る由もなく、テーブルに置いた保住の経歴書をもう一度眺める。


「え? 寝ぐせ?」


「これ、寝ぐせ」


「お洒落じゃないの?」


「違う。こんなのお洒落じゃない。保住はだらしがない。書類は的確で早い。だけど少々乱暴。はったりで通せる相手だけじゃない」


「雪。お前、保住を育てているつもり?」


 槇は苦笑した。


「育てるつもりはない」


「じゃあ、なんだよ」


「別に」


 ばっさりと言い切った野原の横顔を眺めてから、槇はそっと手を伸ばして彼の腕を掴んだ。先程は話の途中と窘められたが、あらかた話は済んだのだ。


実篤さねあつ


 細い指に自分の指を絡ませると、それに応えるかのように、ぎゅっと握り返す野原の手。そういう反応は彼の意思表示。槇は嬉しくなった。


 ソファに座っている野原の腰を引いて、床に組み敷くと、体の奥底がどきどきして、たまらなくなる。


「実篤、ごはん」


「どうせ食べないだろう? お菓子のほうがいいくせに」


「それは……」


「黙って」


 言葉を紡ぐ唇を塞ぐように重ねると、野原が息を潜めるのが分かった。


 これ。

 このキスの仕方を彼に教えるのは、かなり苦労したことを思い出した。


 野原は読書が好きな人間だから、文字を文字として理解することは容易いのだが、ちょっとしたニュアンスを伝えるということが難しい。しかも槇は、そんなに頭がよくないので、野原が理解しやすいように言葉で伝えるということが苦手なのだ。


 高校生の頃。


『いい? キスっていう行為があって』


『本で読んだ』


『じゃあ、できる?』


『なんで実篤とするの?』


『それは、親愛、愛情の印だろう?』


『わかった』


 騙したわけではないのだ。唇を閉ざして、ぎゅーっと固くなっていた野原は、緊張していたのだろう。最初は唇と唇を触れ合わせるだけの軽いキスだったけど、それをこじ開けて、中にまで入り込むには、かなりの時間と労力を要したことは、今でも記憶に新しい。

 

 槇はそんな昔のことに思いを馳せながら、野原を味わう。


『いろいろなことするのはなぜ? これ、全部キスなの?』


 真顔で尋ねられた時は、答えに窮した。バカみたいなことなのに、二人にとったら真面目で重要な課題だった。

 

 軽く開かれた唇から、舌を挿し込んで、歯牙を撫で上げると、野原の体が震えるのがわかる。ここまで反応できるようになったのだから上出来だ。


「雪、おれから離れるな」


 右手を彼の首にかけ、軽く締め上げるように触れると、自然に彼の顎が上がる。更に開かれた唇を、甘噛みしながら瞳を覗き込んだ。槇は野原の緑色の瞳に映る自分を見るのが大好きだ。彼の視線を独り占めしていることが理解できるからだ。

 

 昔は鳶色とびいろがかっていた瞳は、濃い印象だったが、年を重ねるごとにその色合いは薄まる。白みがかったこの緑色をなんと呼べばいいのだろう?


「実篤」


 夢うつつのように小さく耳に届く自分の名を聞くと、日ごろ押し殺している彼への思いがあふれ出すのだ。


「すまないな。こんな要領悪い生き方しかできないおれだけど」


 耳元に唇を寄せて声を潜めると、野原は瞳を閉じた。


「だからいいんじゃない」


 彼の返答は、槇を満たしてくれる。二人が関係性を持つようになったのは、高校生だったろうか? そのせいで野原はインフルエンザを槇からもらい受けて、見事に医大受験を失敗したのだった。


「おれって、ひどいことばっかだよなあ……」


「……実篤」


 ぼんやりと昔のことに想いを馳せている間も、彼を悦ばせることを止めはしない。指先で、手のひらで、舌で、体の全ての感覚を野原で満たしたい。


 自分は昔からなにかが欠けているのだ。どこか空回りしていて、どうやっても寂寥感に苛まれる。

 だが彼が、自分だけを見てくれる視線や、彼の熱を覚えるだけで、そんな気持ちは薄れた。自分に向かって伸ばされた手を握り返して、口付けた。


 二人はこうなるように決められていたのだ。きっと生まれた時から、ずっと——。


 槇はそう信じていた。




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