第三幕

01 叶えたい事



 二人が同級生であるということは、別に隠すこともないことだが、こういう世界だ。どこからかそう言った話題は、噂となって広まる。


 野原の昇進は比較的早いペースだった。それを妬んで「私設秘書のコネだろう」と囁かれているのも当事者である二人は知っている。それにしても、全くもってほったらかしでも野原は順調に昇進していくのだから、不思議だと槇は思っていた。


 正直、彼のどこが買われて上に取り立てられるのかわからない。無愛想だし、人の気持ちも理解していない。人にゴマをするようなタイプでもない。


 社会人になって野原のことがなんだかよくわからなくなっていた。

 彼の輪郭がぶれて見えるのだ。

 本質はわかる。変わっていないからだ。


 しかし社会人として、梅沢市役所職員としての彼の顔を自分は捉えることができていなかった。


 そんなことを考えて上着をハンガーにかけてからリビングに戻ると、野原は帰ってきた格好のままソファに座って仕事の資料を眺めていた。「残業なし」としたから、仕事の持ち帰りが出たのだろう。

 悪いことをしたのかもしれないと思いつつ、槇は自分が持ってきた資料を彼に手渡した。


「なに?」


「その職員の動向をよく見ていて欲しいんだ」


 野原は書類をペラペラとめくっていた。

 内容はとある市役所職員の経歴。漆黒の髪は短めに整えられているものの、所々跳ね上がっている。白い肌に聡明な黒い瞳は濡れている様。薄い唇は不機嫌そうに見えた。


 そして目を引くのは彼の左目尻にあるほくろ。それが彼に艶やかな印象を与えているのは歴然だった。この職員を野原は知っているはずだ。


保住ほずみ……? うちの振興係長の?」


 保住尚貴なおたか

 教育委員会文化課振興係長の彼は、野原の部下にあたる男だ。


「そうだ」


 帰宅してからすぐの話だったから野原は、ぼんやりとした瞳の色を浮かべ、ネクタイを緩めながら書類を眺めていた。そして槇は、隣りに腰を下ろして真面目な顔で野原を見つめた。


 真剣な眼差しで野原を見守っていると、彼も「冗談ではない」と理解してくれたのだろう。経歴書をテーブルに置いてから槇に視線を戻した。


「確かに見てくれはだらしがないけど、部下たちを上手く纏めているし、仕事には真摯に取り組んでいる」


「そうか。振興係はまともに仕事しているのか?」


 槇の問いに、野原は少し間を置いて口を開く。


「保住は野良猫。後はどら焼き、骸骨、ラブラドール犬、マネキン人形みたいなメンバー」


「な、なんだよ、それ」


 多分、振興係のメンバーを表現しているのだろうと理解して笑ってしまう。どれも酷い表現だ。


 ——どら焼きってなんだ? 茶色で丸いってこと?


「そんな輩で仕事がまともにできるのかよ」


「文化課の中では一番まとも。問題も少ない。手のかからない部署」


「そうかな……?」


 槇の返答に野原は怪訝そうな瞳の色を見せて尋ねた。


「なにを始めるつもり」


 野原の問いを待っていたかのごとく、槇は口元を上げてから答えた。


澤井さわい副市長を下ろす」


「副市長? 下ろし?」


「叔父さんは年を取り過ぎた。ここのところ澤井の言いなりだ。このままではせっかくのだろう?」


 肩を竦めて見せると、野原は少し呆れたような表情をした。


「澤井副市長はキレ過ぎる。底知れない人」


「お前もそう思う?」


 野原は頷いた。


「接点はないから本当のことはわからない。だけどそんな澤井に手を出して勝算ある? 水野谷さんの反対派閥だって聞いている。手強い」


 「水野谷」という男の名に槇は心がざわつく。 

 水野谷は、野原の元上司であり彼が槇以外に唯一心許す男だ。


「お前は水野谷さん、好きだよな」


 刺々しい言い方をわざとしてやっているのに気が付かないのか、野原は少し気恥ずかしそうに視線を伏せた。


「お世話になったから」


「お前がそんな風に思える人、珍しいからな。妬ける」


「そんなんじゃない」


「知ってるけど。言いたくもなるわけで……」


 槇はそっと野原の腕に指を這わせるが、すぐにその手を掴まれてから外された。


「真面目な話しているところで邪魔」


「ちぇ」


「でも澤井副市長下ろしと保住と、なんの関係がある?」


 槇は咳払いをしてから、ソファに寄りかかった。


「保住は澤井の恋人、もしくは元恋人ではないかと思っている」


「え?」


 さすがに野原は目を瞬かせた。


「澤井は保住がお気に入りだ。保住が新任で配属された時の上司。そして振興係でも接点がある」


「だからといって飛躍しすぎ」


「澤井は保住の自宅に何度も泊まり込んでいたようだ。おかしいと思わないか? 澤井は、保住の父親の流れを組む派閥と対立しているはずなのだ。それなのにあの猫可愛がりようといったらない。保住も澤井には無遠慮で親しい関係性が隠しきれていない」


「確かに澤井副市長から保住宛に電話があるのは確か」


「だろう? おかしいだろう。そんなこと現実的にありえないだろう。部長が直接、一係長宛てに電話を寄越すなんて。それに」


 槇は続ける。


「澤井は市制100周年記念事業の実施にあたって、特設部署を創設する案を出してきた。その室長に保住を座らせると言ってきている」


「それは……」


「破天荒なことだ」


「無茶しすぎ。保住は係長。独立した室長は次長や課長クラス」


「保住はおれたちより年下だぞ」


「早すぎる出世は周りにもいい影響を与えない」


「そう言うことだ。あまりに身勝手。そして独裁的」


 一気に話を進めて、槇は一息吐いた。野原はしばらく黙り込んでいたが槇を見た。


安田市長おじさんは?」


「賛成こそしないが、反対もできない。だから。保住を利用する」


「実篤」


 野原は難色を示した。


「保住に協力させて、澤井を失脚させる。今度の企画は潰す」


「そんなことをしたら、安田市長の進退問題になる」


「大丈夫だ。上手くやる」


 自信ありげに胸を叩くと、野原は冷たい視線を寄越した。


「実篤の作戦はいつも甘い。上手く行った試しある? ことを起こすなら、もっと綿密に計算しなくちゃ」


「な、考えてる」


「嘘」


「雪は協力してくれないのか」


 槇はじっと野原を見つめた。



 懇願するような視線に、野原は頷いた。


「する。実篤の叶えたいことはおれの叶えたいこと」


 野原の表情は変わらないけど、その言葉には意思が見て取れて張り詰めていた気持ちが緩んだ。






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