03 一緒にいたい



 母親には文句を言われたが、まあ隣の家だしなにかあったらすぐに連絡を寄越すように言われた。まきは母親の詰めてくれたお弁当を二つ抱えて、野原のはらの家に戻った。


 野原は嫌そうな顔をしていなかった。むしろ自分の意見を尊重してくれた槇を見て、ぎこちない笑みのようなものを浮かべていた。


 二人は薄暗いリビングでお弁当を平らげて、それを流しに突っ込んだ。野原が洗い物の仕方を槇に指導するが、自分ではやる気がないらしい。仕方なく槇は生まれて初めて食器の洗い物をするということを経験した。


 台所の片付けが終わると、野原が槇の服を凝視しているのことに気がついた。


 ——そうだった。サッカーで汚れたんだっけ。


 どうしたものかと戸惑っていると、野原に洗濯機の前に連れて行かれた。


「洗濯ものはひっくり返して洗う。まずは水を溜めてから、洗剤を入れて……それじゃない」


「は?」


 槇の持っているボトルを見てから、野原は首を横に振り、それから四角い箱の粉洗剤を手渡した。


「お前、詳しいのな。やってんの?」


「やったことない」


「へ?」


「本で読んだから」


 またこのコメント。槇は首を傾げるばかりだった。今日は初体験ばかり。食器洗いもそうだし、洗濯もそう。二層式洗濯機の使い方も野原の指導の元、無事に終了したというのに自分ばかりさせられている状況って、なんだか理不尽な気がした。


 それから適当にお風呂を沸かして、交代で入った。男の子のお風呂なんてカラスの行水みたいなものだ。髪も乾かす必要もなく、さっさと身支度を済ませると、野原は自分の部屋に上がっていった。


 槇はしばらくリビングでテレビを見ていたが、人の家に上がりこんでリビングで一人寛ぐというのも、なんだか落ち着かなくて、結局は野原の部屋に上がって行った。


「おい、おれも入れてよ」


 そう声をかけるが、彼は真剣に読書をしているようで、全く槇には気がついていない様子だった。


 その日は月が大きな夜だった。春先のおぼろ気な月は、大きな窓から姿を見せていた。 窓に向かった勉強机の椅子に腰掛けて、分厚い本を読んでいる野原がいた。


 元々、読書が好き。暇さえあればこうして部屋にこもって本を読んでいる。野原の母親の実家が近くにあり、彼女としては子どもたちをそこに預けたい思いがあるようだが、野原はそこには行かなかった。いつもこうして自室で本を読んでいる。


 彼の部屋は壁全体が本棚になっていて、ぎっしりと蔵書が詰め込まれていた。しかしそれだけでは収まらず、床にもいくつも積み上がっている本たちが目に入った。こうして所蔵している本だけでは飽き足らず、図書館にも通っているということも知っている。ただ槇からしたら本なんて漫画しか知らないのだ。


 なぜ生まれてからすぐに一緒にされて、ずっと一緒に育ってきたのに、どこで自分たちは違ったのだろう。親が違うから? そもそも人間として別であるということには違いないが、九歳そこいらの槇にとったら、その違った理由がよくわからなかった。


 兄弟みたいに一緒に過ごしてきた野原なのに、彼は自分といることを好んでいないように見えた。だから野原と話をする時は、どうしても気後れしてしまう自分がいた。


 机の照明だけを頼りに、活字を追っている彼の横顔は、なんだか別人のように見える。野原が外に出るのは学校以外ない。そのおかげなのか、母親の血筋なのか、彼の肌は陶器のように白い。そのおかげで唇の朱色が妙に目立つ。


 しかし、みんなと違って見えるのはそれだけではなかった。そのだ。野原の瞳は、鳶色とびいろと緑色が混じり合ったような不思議な色だった。


 ——野原せつという男はこんな男だっただろうか?


 槇はしばらく言葉を失ったまま、野原を凝視していたが、ふと彼が顔を上げた。


「なに?」

 

 彼に見入ってしまっていたことを気づかれまいと、槇は慌てて誤魔化し笑いをした。


「おれ、眠くなっちゃって」


「そう」


 時計の針は九時を指すところだ。


「寝るの」


「そうだな。明日も学校だしさ」


 野原は頷いてから本を閉じた。そしてそこで初めて気がついたとばかりに目を瞬かせた。


実篤さねあつ、どこで寝るの」


「あ、そうだよな。布団か。布団……」


 槇の問いに彼は首を横に振った。お客様用布団なんて、どこにあるかわからないという顔だ。


「じゃあ、いいや。おれもここで寝よ~」


 槇はあっけらかんと言い放って、さっさと野原のベッドに飛び乗った。


「……」


「あれ? 反応なし? 嫌なのか」


「別に。狭くないならいいけど」


「いいじゃん。どうせ。夜はそんなに寒くない」


 槇がぴょんぴょんとベッドの上で跳ねているのを見てから、軽くため息を吐いて、野原はベッドに入り込んだ。大人になっても使えるようにと、大人サイズのベッドが置いてあってラッキーだ。二人は毛布にくるまって落ち着く。


「なあ、お前、なんの本読んでんの?」


「いろいろ」


「いろいろって」


「なんでも好き。作ったお話も、本当の話も」


「作った話で好きなのってなに?」


「神話の話とか好き」


「シンワ? シンワって何だよ」


 槇の問いに、枕に収まっていた野原は視線を上げた。


「神の話って書いて神話。知らないの」


「そ、そんなのみんな知らないし」


 無知を指摘され、槇は顔を赤くする。二人は月明かりで明るい天井を見上げていた。


「日本の神話、ギリシアの神話、北欧の神話。伝説や昔話みたいなもの」


「そ、そんなにあるんだ」


 いつもは寡黙な野原なのに、彼は槇に日本書紀の天地開闢てんちかいびゃくの話を聞かせた。


 混沌の世界に舞い降りた神たちが日本を作り上げていく話。それからたくさんの神様が生まれてきたこと。そして神さまたちが様々な物語を織りなす様。それらを彼なりの言葉で語ったのだ。


 槇は今まで生きてきて、そんな話を聞いたこともない。その話に夢中になっている自分に気がつかずに聞き入っていた。特に興味を引いたのは「伊邪那岐イザナキ」と「伊邪那美イザナミ」の話し。


「え~! ウジってなに?」


「ウジはハエの子ども。動物の死体とかにわく虫で……」


「気持ち悪いじゃん……」


「それに体に雷神がたくさんついていて……だから、伊邪那岐イザナキは逃げた」


「で、でもさ。その神さまのこと、好きだったんだろう? 迎えに行ったくせに、逃げるんだ」


 槙は野原の語る言葉に本気だ。


「実篤は逃げない? 大事な人がどんな姿になっても逃げないでいられるの?」


「お前はどうなんだよ」


「おれは」


 野原は眠くなった目をこすりながら小さい声で答えた。


「関係ない。どんな姿だって、その人がその人なら、関係ない」


「ウジ虫、気持ち悪くないのかよ」


「虫は虫。実篤は、虫嫌い?」


「き、嫌いじゃねーし」


「じゃあ、いいじゃない」


 うようよと白い虫がうごめいている人間(と言っても神様)を以前のように大事に思えるのだろうか。槙はそんな想像をして身震いした。


「でもさ、雪……あれ?」


 そしてふと、いつしか彼のその声が聞こえないことに気がついて隣に視線をやると、野原はいつの間にか眠りに就いていた。


「どっちかっていうと、実篤は須佐男スサノオみたい……」


「なんだよ。それ」


 寝言みたいに呟くその言葉は夢現。すっかり寝入ってしまった彼を見つめて、本の話をさせたらこんなに話すのかと驚いた。

 

 いつもは自分を拒否するように、距離を取ってくるくせに。槇はふと野原は頭を撫でてみる。


 ——こうして一緒に過ごすことができたらいいのに。


 その意味が子どもの槇にはよくわからない。だけど事実は、そう。


 野原と一緒にこうしていられたらいいのに。なんだか少し心の奥が熱くなるけど、当時の槇には、その意味がよくわからなかったのだ。







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