02 幼なじみ


 まき実篤さねあつ


 彼は今年三十七歳になる。梅沢市長の私設秘書を担っていた。身長一八七センチメートル。長身で少し日本人離れした彫りの深い造りは、女性の目を惹くには十分すぎる容貌だった。


 しかし彼を残念に見せるのは、その趣味の悪いヘアスタイルだ。少し長めに伸ばした髪は軽く波打ち、亜麻色の不自然な髪色は、彼の品位を下げる要因の一つであると、彼自身は全く認識していなかった。


 槇が市長の私設秘書を担うことになった経緯いきさつは至って簡単。大学を卒業し、就職する当てもなく父親の経営する不動産会社でプラプラとしていた彼を、母方の叔父である安田が拾い上げてくれたのだ。


 当時、安田はまだ若く、政治家としての活動も意欲的だった。そのため公設秘書だけでなく、私設秘書が必要だったのだ。


 元々、槇の父親は旧家の出身で、梅沢駅周辺の一等地を広範囲で所有しており県内でも有数の資産家だった。父親はその資産を基に不動産会社を経営していて、全国各地を飛び回るくらい忙しい。帰ってくるのは年に数回程度と言う有様だった。


 そんなボンボンの父親と結婚をした母親もまた、安田家という士族の出で、一般的な常識から少しずれているような女性だった。父親不在の家庭で、母親と姉二人に囲まれた生活は、彼にとっては苦痛の連続だった。何事も女性優位であり、槇は肩身の狭い思いをさせられていたからだ。


 ——なに事も思い通りにならない。いつかきっと。自分が自由にできる世界が欲しい。


 槇の中には、いつの間にかそんな思いが強くなって行った。



***



 あれは槇が小学校五年生になったある夏の日だった。


 サッカーの練習を終えて自宅に帰ると玄関先で、母親が黒い電話の受話器を持って「あらやだ」とか、「へえへえ」なんて変てこな相槌を打っていた。


「女って、本当しゃべるの好きだよな」


 そう呟いて彼女の隣を通り過ぎようとすると、ぐいっと首根っこを掴まれる。


「な! 離せよっ」


 ジタバタとしてもふくよかで大柄の母親の腕力には敵わない。


「ちょっと、静かにおし」


 彼女は槇を嗜めるように鋭く言い放ってから、よそ行きの声になる。


「それは大変じゃない。わかったわ。実篤さねあつが様子をみてくるようにするから。うんうん。今晩は家に泊めるから安心して。うん、じゃあね。お仕事頑張って」


 チンと言う機械的な音を鳴らして、受話器は電話機に収まった。


「なんだよ」


せっちゃん一人なんですって。お母さんが急に仕事入っちゃったみたいで。りんちゃんは、おじいちゃんの家にいるみたいだからいいけれど、雪ちゃん一人になっているみたいなの。あんた行って連れてきなさい」


「別にいいけれど」


 野原のはらせつ


 隣の家に住む幼なじみ。槇と野原は二日違いの誕生日だった。野原の方が先に生まれたので親たちは「お兄さんね」と言っていた。


 産婦人科病院で偶然に出会した二人の母親たちは、その時から意気投合し、頻繁に付き合いが始まる。


 野原家の父親は整形外科の医師で市内で開業をしていたが、眼科医の母親とは反りが合わずに野原が小学校一年生の時に離婚していた。

 総合病院勤務で忙しい野原の母親は不在にすることが多く、その際、彼女の実家に野原とその妹の凛はよく預けられていたのだが、五年生くらいになると野原は祖父母の家には寄らず、一人自宅で過ごすことが増えていた。


 母親にお尻を叩かれて追い出されるのは不本意だが、槇は外に出てから野原家のチャイムを押した。ビーっという耳触りな音が鳴ったかと思うと、そっと静かに玄関が開く。


「おれだよ。雪」


 木製の扉の間から覗く不可思議な色の瞳。

 ——野原雪だった。


「迎えにきた。今日はおれの家に泊まるんだぞ」


「……行かない。一人で大丈夫」


「お前ねえ」


 母親からは「帰れない」という電話が入っているか、槇が迎えに来ることは想定内という対応なのだろう。はなからお断りという態度だ。


「あのさ。おれが怒られるんだよ。さっさと来いよ。別にいいだろう? いつものことじゃん」


「いい。一人で大丈夫」


 ——めんどくさい。


 野原は昔から、槇の思い通りにはなってくれない。大人になってから考えると、自分の世界をかき回す槇の存在が嫌だったのだろうと想像できるのだが、十歳そこそこの槇からしたら、そんな野原の気持ちなんて理解できるはずもない。


 自分の思い通りに動いてくれない彼は、槇を拒絶しているような気がしていたのだった。だから野原と話すとイライラする。今日もそうだった。槇はムッとして強引に隙間に腕を突っ込むと、野原の腕を捕まえて引っ張った。


「実篤、やめて」


「いいじゃん。めんどくさいんだよ。お前。さっさと来いって。決まっていることなんだから」


「でも」


「いいから!」


 ひ弱そうに見えるくせに野原の抵抗は固い。二人はしばしその体勢で押し問答を繰り広げるが、埒があかないことは目に見えていた。槇は腕を掴んだまま大きくため息を吐く。


「お前さ、なんなんだよ? 意味わかんないし」


「……本」


「え?」


 ボソボソっと彼は口の中で話す。よく聞こえない。どうしてこんな話し方をするのだろうと槇は思った。はっきり喋ればいいのに。いつも、もごもごとして野原の話し方は、はっきりしないのだ。


「なんだって?」


 槇が大きな声で聞き返すと、野原は必死に言い返した。


「本、読みたいのがある。だから、一人でいたい」


「はあ? お前さ。本当に……」


 槇は文句を言いかけてハッとした。野原の瞳は真剣で必死だったからだ。昔から見慣れているから不思議には思わないが、彼の深緑色の瞳はいつにもなく真剣に槇を見据えていた。さすがの槇もそれにはたじろいだ。


「……わかったよ。だけど、おれの言う通しにしろ。そしたら、家にこなくていいから」


「言う通りって?」


 野原の問いに槇は、満面の笑みを浮かべてから自宅に走っていった。






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