旅の終わり

「今でも偶に、僕は母さんのことを思い出す。けれどその光景は、もう哀しいものでは無くなったんだ。水琴鈴の音色が加わって、苦しいけれど救われる。本当に死んでしまいそうな夜、その音色は僕のことを救ってくれる。一人きりで、寂しくて、暗い暗い夜の底に、いつも傍にいてくれる。僕を救い続けるのは、いつだって水琴鈴の音なんだ」

 景色はいつの間にか、元の草原に戻っていた。

 僕はマグカップ売りの少女に面する形で座っている。小風が草原を滑り駆け抜ける。少女の髪が揺れる。僕の手元にはまだ、マグカップがある。

 あれから。

 僕はあれから、赤子を孤児院へと連れていった。孤児院を経営する身体の逞しい大男が、僕から優しく、赤子を取り上げた。赤子は恐怖を失い、静かに眠っていた。

 僕は赤子を預けると、孤児院の門で一礼して、それから家に帰ることに決めた。すべては、何も変わっていなかった。捨て子を届けたまでである。僕は何も変わっていない。水琴鈴だって、赤子の手元にあるままだ。何かを得た訳では無い。

 それなのに。

 僕はどうしてか――確実に、救われていた。

 多分、僕はその時、何か大切なことに気づいたんだろう。それはとても基礎的なことで、誰もがそれと理解していて、しかしながら、ふとした大切な時に姿を現さないような、そんなものだろう。

 水琴鈴の音が鳴る時、僕は救われる。

 止まっていた歯車が動き始める。

 ひとりきりの暗闇に光が射し込む。

 失われていたものが再生する。

 時は再び進み始める。解錠される。

 罪は許される。傷は癒える。夜は明ける。

 僕がそれらを封じ込めていたのは、やはり生きていく為なのだろう。やはり、周りの人間は正しかったのだ。人間は過去を割り切らなければ生きていけない。哀しみを理解しなければ、ずっと過去のままである。水琴鈴の音を頼りにして、僕は這い上がる。生きることを選ぶ。死から遠ざかる。

 その過程で、僕は水琴鈴を忘れ去ったのだ。

 悲しみを、忘れた。平凡に還った。

 けれど、無意識の中で、やはり僕は望んだのだろう。

 僕を救う音色を。母さんの存在証明を。

 順巡り。僕を見ていたのは僕だった。

 マグカップ売りの少女は僕に言う。

「人間はよく、哀しみを乗り越えると言いますが、そんなこと、人間に出来るはずがないのです。哀しみとは、寄り添って生きていくしか方法はありません。乗り越えたと考えるのは無理矢理です。ですから貴方は、何も間違ってはいないのですよ。他が正しいということは、あなたが間違っていることの証明にはなりません。」

 マグカップ売りの少女はそう言って、僕に小包を手渡した。

「今日からこのマグカップは、あなたのものです」

         ✥

 彼女に貰ったマグカップは、純粋な黒に彩られていた。それはただ単純な黒ではなく、何処か月明かりに照らされた街のように、穏やかな薄明かりを伴っている。だからこの黒は、黒というよりは夜と名状したほうが丁寧だ。決して漆黒では無い、淡い闇色。

 僕は夜色のマグカップに珈琲を淹れる。

 僕は珈琲を静かに飲みつつ、窓の外を眺める。

 青空と入道雲。木々の深緑と飛行機の跡。

 深緑の大地。涼やかな風。

 マグカップを使う時、僕は忘れていた痛みを思い出す。

 忘れてはいけなかった痛みを思い出す。

 心の痛みは、もう消え去ることはない。

 痛みと共に生きていく。傷を抱えて生きていく。

 これからも、その先も。

 傷ついて、傷ついて、いきてゆく。

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マグカップ売りの少女 雨籠もり @gingithune

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