青年の物語
もう、四年前の話になる。
母さんが亡くなって、四年も経つ。
それなのに――たったひとりの家族を失ってしまった、その消失感に僕の心は蝕まれてしまって、まるで腐り落ちた果実のように、穴ぼこになってしまって、上手く機能しなくなってしまった。
出来損ないの、木偶人形。
人でなし。そう言われた。
『そろそろ割り切ったらどうなんだ』
そう、説教をする者がいた。
『君のお母さんも君のそんな姿は望んじゃいない』
そう、背中を叩く者がいた。
『もう君だって、大人なんだから』
そう、優しく諭す者がいた。
分かっている――分かっている。
それでも駄目だった。
この世に於いて恐らくは、僕よりも彼らの方が正しいはずだ。僕は馬鹿で無知で、彼らには酷く及ばない。無惨な人間であることなど分かっている。彼らが正解で、僕が間違っているはずなのだが、それでも、僕のどこが、どれだけ、どんなに、どれほど間違っているのか、僕にはどうしても理解出来なかった。こうして僕は、世間から外れたのである。こうして僕は、学校に通わなくなった。
弾かれた。
爪弾き。
滑稽なことだろう。僕は笑いものだ。見世物だ。ただどうしても、強くなりきることが出来ないんだ。割り切ることも、忘れることも、僕には叶わない。正解は僕よりも遥か遠いところにいて、僕のことを見て嘲笑っているのだった。その他大勢の正しい人間諸君と肩を組みながら、彼らは小躍りして僕を虐めるのだ。
だから僕は家に篭って目を閉じる。まぶたの裏に、記憶の中の世界を再現する。
『母さん、彼岸花のようだ。』
思い出の中の僕が語りかける。
『そうだね、まるで彼岸花のようだ、これは。』
思い出の中の母が僕に応える。
その様子を、僕は後ろから眺めている。流した涙を拭うこともせずに、声も絶え絶えに叫び続けている。どうして死んでしまったのか、どうして僕をひとり置いていったのか、どうして僕には何も出来なかったのか。叫びは彼らに届くことはない。所詮は記憶の中、ただの回想に過ぎない。
それでも、叫んでしまう。それは自己満足だ。
不安で仕方が無いから、逃げ場の無い感情が、声になって顕現するのだ。それは無駄で、愚かな行為だ。割り切れない人間、木偶の坊の有様だ。
そんな毎晩を、僕は幾年月も続けてきた。
寝不足に心身は病み、頬はやつれ、気は乱れ、心は粉々に砕け散った。修復不可能な傷を何度だって抉られた。その度に、人から弾かれる。理解されることは無い。何故なら母さんのことを愛していたのは僕だけだったのだから。母さんのことを知っていたのはこの世で僕だけだ。僕だけが味わうことの出来る哀しみだ。これは、誰にも分からない。だからこそ、僕の痛みは誰にも理解されない。
その日も、僕は麻布を毛布代わりに掛けて、鞄を枕代わりにして暗闇に横たわっていた。哀しみを思い返しながら、幾度も涙を流した。もう死んでしまおうかとさえ考えた。死の世界の方が、僕の生きる世界よりも幾らか優しい気がした。
こんな時、鈴の音ひとつあれば、僕の心はまだ安らかであったと思う。
『そうだね、まるで彼岸花のようだ、これは。』
母さんが話すその度に、僕の傍で囁くように鳴っていたあの、水琴鈴の音色。母さんの身辺整理と同時に、何処かへ棄てられてしまった水琴鈴。もう二度と聴くことは叶わないであろう、鈴の音。
母さんの名残。
記憶の補助器具。
今はもうない。
僕は麻布を大きく羽織ると、いつもよりきつく目を閉じた。そうしている方が、思い出さないでいられるように思えた。
母さんのこと。両指の絆創膏のこと。
生気の無い白い肌と、枕花の赤色。
その時、ふと――涼やかな音色が、鳴った。
家の外、街路の方角だ。僕は慌てて麻布を投げ出すと、下駄も履かずに飛び出した。暗闇の中に、それは確かに存在した。水琴鈴の音だ。
母さんだ。
「母さんっ」
僕が呼びかけた――その先に、しかし母さんはいなかった。代わりに、小さな木籠が、乱雑に街灯の明かりの下で揺れていた。揺れて揺れては、泣いていた。
僕は咄嗟に悟った。捨て子である。
置き手紙には数滴の涙が付いている。きっと、この子の親はまだ近くにいるはずだ。我が子を捨てるだなんて道徳の欠片も無い。僕はそれを追い止めようかと考えたが、しかしそうはしなかった。
できなかった。
だって僕は知っている。
母さんの指の傷と絆創膏を知っている。
母さんの並々ならぬ苦労を知っている。
母さんの過酷な日常を嫌という程知っている。
だからこそ、赤子が自分に重なって見えた。
自分さえいなければ、
母さんは死ななかったかもしれない。
ともすれば、赤子はどうだろう。この結末に満足か。親を生かすために棄てられて、それで満足なのか。
赤子にそのまでのことを考える知恵は無いだろう。けれど僕は考える。考えなくてならぬ。
僕は咄嗟に薄汚れた手紙を手に取る。指で折られて閉じられた手紙。封を解いて中を出す。
そこには一言、あった。
『私以外の者に生まれたほうが、この子は幸福だったのだ。私抜きで幸せに。』
僕は叫ぶ。「違うっ」僕は泣き叫ぶ。「違う、違う、違う……!」なぜあなたが罪の意識を負うのだ。なぜ傷だらけになってまで僕を養ったんだ。どうして休まなかったんだ。どうして僕なんかを育てる為に、自分の人生を引き裂いたんだ。自分の命を売り捌いたんだ。
「どうして理屈が通じない!」
理屈では無いというのか。
それなら僕が信じた学は、虚栄でしかないのか。
僕は蹲る。肩を寄せ、過呼吸に地面を見る。胸が酷く苦しい。熱い鉄の棒で、肺を掻き混ぜられているような気分だ。熱い、苦しい、酷い。自分が滅びていく。自分が無くなっていく。現在進行形で死んでいる。死に続けている。
死にたい。生きたくない。死んでしまいたい。
その瞬間であった。
水琴鈴が、もう一度だけ、その音を鳴らしたのは。
涼やかで、寂しげで、清らかな音色。
僕はふと、息苦しさを忘れて目覚める。ゆっくりと、倒れないように木籠に向かう。赤子は泣き続けている。その傍に。水琴鈴がある。
子供が煩わしいなら、殺して山にでも埋めればいい。それでもこの親がそうしなかったのは、親がそれだけ、この子に対して愛情があったからでは無いのか。
僕ははたと起き上がる。赤子を抱き抱える。それは革命よりもか細い微かな火ではあったが、けれど確かに命であった。
水琴鈴の音色。母親の愛情。
見ろ、僕は今からこの子を孤児院へ連れて行く。これで少しは救われるだろう。この子の親の祈りは叶うのだ。それは大変身勝手な思考だが、それでも愛があったから、手紙を認めたのだろう。
それは愛を証明するものになるはずだ。
失われたのではない。見当たらなかっただけなのだ。そして僕は、もうそれを見つけてしまった。
そうだ、きっとそうだ。
「お前も僕と同じだね」
僕は赤子を抱き上げる。手紙を懐にしまう。
遺され生き続ける哀しみに咽び泣きながら、
僕は夜を走る。
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