マグカップ売りの少女

雨籠もり

旅の始まり

 その少女と初めて出会ったのは、夏が始まるよりも少し前、入道雲の切れ端が落とした影の最中のことであった。梅雨明けの青空に覆われた草原の最中に、彼女はひっそりと屈んで、古びた革製の鞄を開いて、その中を覗き込んでいた。

「こんにちは」僕はそう、声を掛けた。

「こんばんは」彼女はそう応えた。僕の方を彼女が見る。蒼い瞳が現れる。

 彼女は、そのスカートの先から肩にかけてフリルのついた、まるで童話に現れる使用人が、好んで着用するような衣服を身に纏っていた。けれども、彼女の身の上を尋ねれば、彼女は国々を周り、海を渡ってマグカップを売っている行商人なのである、というのだから不思議なものだ。自分と同じくらいの背丈、同じ程度の歳かさである彼女は、何処か名前も知らない国からこの地域へと足を運び、古びたアンティークな鞄を開いて、その鞄いっぱいに、しかしながら美しく並べられたマグカップを、人を探しては、その人物の姿、その路の在り方を、まるで井戸水のように少しづつ汲み取っては、ひとつひとつ丁寧に売っているそうだ。

 その人物の姿――その路の在り方。

「そのようなものを、どのようにして計るのですか。」

 僕は彼女の隣に腰掛けると、メルヘンチックな童話の少女に問い掛けた。まるで異世界から、何かの拍子に飛び出してしまったような彼女は、僕の質問に対して少し考えるとそれから、身体ごと此方に向き直って、続ける。

「マグカップを受け取りますか?」

 彼女は尋ねる。尋ねて――首を傾げる。

「買う、ということですか」僕は訊く。

「同義ですが、そのような呼び方は好きではありません。」彼女は答える。

「さあ、あなたのマグカップを受け取りますか、受け取りませんか。深く考えることはありません。マグカップを受け取ること自体には、何ら意味はありませんから。ただ、あなたの人生の傍に、あなたのマグカップがひっそりと加わるだけです。古いものもあれば、新しいものもございます。大切なのは、あなたのものであるかということ。あなたがそれを、自覚するのかということ。あなたがそこに、何を注ぐか、ということです。」

 僕は、財布の在り処を、通学鞄の中に確認してそれから。新聞配達のお給料を入れたままであったことを思い出して――それから、まあひとつ、マグカップくらいなら、購入してもいいだろう、と、安易な考えで頷いた。

「……分かりました。」

 彼女はひとつ頷くと、革製の古びた鞄の中からひとつ、綺麗な装飾の施された白色のマグカップを取り出すと、それをゆっくりと手のひらの中で回し見して、それを鞄の中央部に嵌め込まれている、机のような箇所に置くと、それから同じく、鞄の中に入っていた茶葉の入った幾つかの瓶と水筒を取り出して、それらを順番に、そのマグカップの隣にコトン、と降ろした。

「あなたの好きな色を教えてはくれませんか。」

 彼女はそう言いながら、茶葉の入った瓶の蓋を取り外して二さじほど掬い取り、傍に在るティーポットにそれを落とすと、水筒の蓋も外して――その蓋を、取り外した瓶の蓋の隣に置いた。

 潮騒が遠くで鳴っている。まるで歌うかのように、木々はせせらぎ、波はさまよい、風はとぐろを巻いていた。それらすべてが彼女を中心にして、まるで絵本の中の出来事を再現しているかのように――いや、実際に絵本の中に自分たちが在るように、僕らのことを、不思議と取り囲み、くり抜いて、切り取っていた。それはまるで気に入った記事を、使い古したノートにスクラップするように、限定的で、幻想的であった。

 好きな、色。

「僕は――瑠璃色が好きです。」

 何の含みもなく応えた僕の言葉に、彼女は僕のことを見ることもなしに頷いて、鞄の中にある瓶のうち、青色のテープの貼られた瓶を取り出し、そこから一さじを掬うと、茶葉の中に混ぜ合わせた。続けて、水筒の中の熱湯を、茶葉の入ったティーポットの中へと注ぐ。

 彼女はふと、その顔を挙げて、僕の方を見た。

「それでは――あなたの大切な音を教えてください。なんでもいい。雨粒の着地する物音でも、誰かの話す声色でも、なんでも――あなたの好きな音を、お聞かせください。」

 ――音、か。

 ティーポットの中では、不思議に茶葉が、ゆらりゆらりと、まるで秋風に舞う木の葉のように、その姿をたなびかせていた。舞い上がっては、震えるように落ちていく。熱湯に溶かされて淡い赤を廻しているその空間は、荒々しい嵐のようにも見えて、それでいて穏やかな、森林の奥深くのような情景さえも、僕の心に連想させた。

 音色。

 好きな音色ではなく、大切な音色。

 色とは違って、その選択は多岐に渡るだろう。なんでもよい、と言われると、それはそれで困りもする。僕は音楽に対しては疎く、それでいてあまりにも関心がなかった。

 だから――なのかもしれない。

 だからこそ、僕はそんなことを思い出してしまったのだろう。あまりにも、音色のことを想起しすぎてしまったせいで――いらないことを、思い出してしまった。

「水琴鈴の――音色、でしょうか。僕の大切な音は、多分その音だ。鈴のくせに、耳に残る鳴り方をするんだ。細い指で肌を引っ掻くように、余韻を残して去っていく。音色の移動するその軌道が爪痕のような線になって、僕のことを縛る。そういう音。」

 後ろ髪を引くような音色。

 その表現方法は本当に的確で、僕はその音を聞き入れる度に、その音のする方向へするりと振り返ってしまう。心の湖に大きな波紋が現れる――そして、その湖の円かの節々で波紋は打ち返され、やがて波紋は交ざり重なり溶け合って、やがて僕の心を解いてしまう。解かれた僕の心は一本の糸になる。

 ぴん、と張られた細い糸。

 そしてその瞬間、僕は思い出すのだ――心とは、琴線なのであるということを。触れ方によって響き方も、その音色もまるで異なりはするが、しかしそれはまるで鏡のように、優しい音には優しい音で返す。琴線とはそういうものであって、心とはそういうものなのだ。触れる度に響き合う。そんな幻覚を、錯覚を生じさせるのが、水琴鈴の音色なのである。

 糸なのに、円かのよう。

 心なのに、響きのよう。

 彼女は、ティーポットの中に踊るそれらが、丁度混ざりあったその瞬間を発見すると、すぐさまそれを持ち上げて、茶こしを介し、音の立たないように、ゆっくりと――そのマグカップに向けて、注ぎ口を傾ける。

「瑠璃色と水琴鈴ですか。」

 彼女はそう呟いて、注ぎ終えたそのティーポットを元の位置に正すとそれから、自分よりもずっとずっと上空に在る雲のことをふと、見上げた。僕も釣られて見上げてしまう。

 それは、幼児が丸めた折紙のように不格好な雲であった。夏を間近に控えた青空にある所為で一段と白色に見えるそれは、ゆったりと大空を漂い続けている。

 彼女はそれから、ふと何かを思い出したように、こちらをふと見て――それから、マグカップの取っ手を僕の方に向けると、「どうぞ」と小さく、呟いた。「お飲みください。」

「――いただきます。」

 僕は静かにそう言って、差し出されたティーカップを手に取った。赤色の湖畔が、そこにはあった。生物的では無いことを理解していても、その赤色は確かに秋であった。枯葉が湖畔に落ちきって、それらがいつしか、その重みに敗北して水中深くへと沈んでいってしまったような、そんな印象を受けた。

 口元へと、マグカップを運ぶ。その瞬間、僕のいままでの、湖畔であるとか秋であるとか枯葉であるとかの先入観は、一気に崩壊することになる。僕は思わず――目を見開いた。

 写真だ。

 フィルムから現像した写真だ。

 写真を焼いたような、甘い匂いがする。

 この赤色は――炎なのだ。炎の赤色なのだ。空気を掬ってかき集め、写真に当てて、灰と化して千切り取る。ぱちぱちと、ちりちりと。軽快で落ち着いていた崩壊の音色。灰は舞い踊り、火の粉はゆらめき、輝きを伴ってまるで生命のように蠢いている。

 その紅茶は――まさしく、炎そのものであった。そして今から僕は、この大火を飲み込むのだ。自ら進んで、望んで飲み込むのである。そして僕はその事実に恐怖し、感嘆し、そして恍惚とした。とうとう唇にマグカップが到達する。冷たい感触が、唇に伝わる。紅茶の熱気が顔に向かい揺れる。ごくり、と唾を飲み込む。

 僕は――そのまま、大火を、口内へと運んだ。

 熱湯が――口の中へと、吸い込まれていく。

 その様子を、彼女はじっと静かに――見守っている。

 熱い。そう思った、その瞬間はしかしながら、一瞬の出来事であった。甘味で包み込むような苦味。それはまるで、冬風に触れられて欅の木が、その葉を擦り合わせるように、その身体を押し付け合い、押し出し合い、絡み合って、唯一無二の世界をもたらしていた。舌を絡めとるような味だ。しかしながら粘着的でも、執着的でもなく、それは深海をさすらう砂利のように、音もなく流れ続くのであった。

 そして、さらに僕が驚愕したのは、その紅茶が僕の口から、体内へと運び出された――その瞬間であった。

 普通、熱いものを食べたり飲んだりすれば、その温度がシグナルとなって、身体の何処を通っているのか、何処に触れているのかを嫌でも察せられるものなのだ。しかし、その紅茶は、僕の体内に入ったその瞬間――溶けきったのである。

 液体が、という意味ではない。口の中に感じた熱が、そのまま僕と一体化している。まるで消化器官など、跡形もなく消え去ってしまったかのように、その熱は僕の身体に進入するや否や、僕の身体と、神経と、血液と、混ざりあって溶け合い、蕩けきったのである。

 それはもはや食事という、人間的なそれとは一線を画していた。それは神聖な調合であって、調和であって、共鳴であった。

 僕はゆっくりと、唇からマグカップを離して、それから眼前のメルヘンチックな行商人のことを見る。マグカップ売りの少女は、そのショートヘアを揺らして首を傾げると「如何でしたか」とまた、静かに尋ねた。

「とても――不思議な、体験でした。」

 唇から離したマグカップは、そのまま僕の手元に存在している。そして僕は、ふと何の気なしに、その紅茶の表面をもう一度見た――そしてその瞬間、僕は戦慄した。

 それは再び――秋の湖畔に、戻っていた。

 火など、炎など、火炎など、何処にもないのである。

「そう……ですか。」彼女は静かにそう言った。彼女の、狐のように鋭く、大きな瞳が、長い長いまつ毛に囲まれて、青色に輝いている。彼女は僕のことを、さも当然であるかのように、見つめている。僕はその瞳に、不思議に囚われるように――彼女の瞳を、思わず見返していた。彼女は唐突に、ぐい、と此方に向かって、身を乗り出す。

 僕は多少驚いて、生命的な反応であろうか、少しだけ仰け反ってしまった。視線はまるで彼女の瞳に吸い込まれてしまったかのように、彼女に向けられて固定されている。

 彼女は言う。静かに言う。白色の唇が開く。

「紅茶には――マグカップには、不思議な力があるのです。手に取った人物を、飲み込んだ人物を、その心の奥深くまでを、細い細い、糸のように変えてしまう。細くて細くて、儚くて儚くて。人間とは糸のほつれなのですよ。紐解かれれば、はらはらに散って、分かれて広がる。さあ――目を閉じて。」

 彼女はその左手で、僕の背中にそっと、触れた。暖かい彼女の手の感覚が、それはまるで、先程口にした紅茶のように、僕の体温と、溶け合った。僕は彼女の言うままに、目を閉じる。

 暗闇の最中に落ちる。

「そのまま、ゆっくりと呼吸をしてください。」

 言われるがままに、呼吸を開始する。肺に空気を溜め込んで、それを一気に外部へと押し出す。そしてその瞬間、今度は僕の意識の中に、異常は発生した。大気を胸いっぱいに吸い込んだその瞬間に、意識は徐々に拡大を開始したのである。それは、意識できる範囲が広がる、という意味ではなくて、ただ単に、意識が淡く広がり、滲んでいくような感覚であった。やがてそれは身体にも影響する。身体は段々と、ゆっくりとその輪郭を曖昧にしていく。息を吸えば吸うほどに、膨張していく。風船を膨らませるように、大きくなっていく。

「息を――吐いて。」

 膨張した意識の中に彼女の声が侵入する。そしてその瞬間、意図するとしないとに関わらず、僕の身体は、体内に存在している空気のありったけを押し出す。僕の身体は帳尻を合わせるかのように縮小を開始する。僕の心は、身体は、段々とその形を取り戻していく。しかしながら、意識だけは、拡大されて、頭よりも少しうえの辺りに、取り残されたままであった。

「これからあなたの心を、紐解きます。」

 彼女は静かにそう言った。背中にあてた彼女の手は、僕の身体に確かな温度を与え続けている。もはや身体中が脱力し、指ひとつにさえ、力を入れることが出来ない。力を入れようとすると、痙攣して、それがさらなる脱力を産むのである。

「忘却世界の片隅に這入ります。」

 その瞬間、身体はふわりと宙に浮かんだ。目は閉じたままであり、そして僕は、考えることと、感じることを、停止した。それはまるで、コンピュータの電源を、ぷつりと落としてしまうように、瞬間的であった。

 僕の身体は――彼女に向かって、倒れ込んだ。

「落ちる、下る、降りる。しかしながら、それは見かけだけであって、実を言えば、昇っているんです。分かりますか?」

 彼女の声が、霞んで聞こえた。

 その瞬間、水琴鈴の音色が、聞こえた気がした。

         ✥

 目が覚めると、そこは納屋の中であった。

 幾つもの藁が積み重なっているただそれだけの納屋の中で、僕はこんこんと眠ってしまっていたようだった。眠りすぎてしまったのか、両のふくらはぎが痺れるように痛む。僕はゆっくりと立ち上がると、その場の状況を把握しようと、目線を巡らせる――と、その時、僕はようやく、マグカップ売りの少女のことを思い出した。

 マグカップ売り、行商人の少女は、僕と同じく藁の中に横たわり、健やかな寝息をたてて、その両目を閉じている。その両手にはしっかりと、革製の鞄を抱きしめられていた。

「ここはいったい何処なんです?」

 僕が尋ねると少女は、その瞼をゆっくりと持ち上げて、青く透き通った、まるで青空を掬ってガラス細工に流し込んだかのようなその瞳を現すと、それから僕の方を見て、言った。

「あなたの記憶の最奥にやってきたのですよ。」

「記憶の最奥?」

「そのとおりです。ここは、現実にはありえない場所。けれども、ここに存在しているすべては、紛うことなき事実なのです。真実なのです。そのどれもが既に失われてしまって、もはや存在しているべきでは無いのですが、けれどもそれは、間違いなく、本当であり、世界なのです。」

 世界――か。

 僕は何かを理解できることも無く、彼女の言葉を鵜呑みにしていた。僕は続けて訊く。

「どうして僕達は、こんなところに来ているのですか」

 少女は立ち上がりながらも、答える。

「それは、あなたが望んだから。あなたのほつれて絡まったすべてが、あの紅茶を飲むことによって、垂直に解け、一本の、線になったのです。私はただ、線になったあなたを辿っただけ。線の先にはあなたの本当に望む景色が存在している。」

 僕が望んだ――もの。

 それが、こんな藁だらけの納屋であるというのか。僕にはそのことを上手く飲み込むことが出来なかった。学校でもなく、我が家ではなく、納屋。

 それとも、僕はここに、来たことがあるのだろうか?

 そんなことを考えていると少女は、唐突に――僕の口を左手で塞ぐと、背面に回って右手で僕の腹部を抱くように抱え、瞬間、大外刈りのような形で、僕を藁の影に押し倒した。二人分の体重が藁の中に沈む。咄嗟のことに理解が追いつかない――しかしながら、彼女が僕の口を抑えて押し倒したその理由は、直後に答え合わせが為された。

 ギィ、と納屋の扉が開いたのである。

 僕は思わず目を見開いた。僕の口を塞いでいる彼女の手の紅茶の茶葉の香りが、僕の感覚を、思考を麻痺させた。僕は声を出さないように、視線を動かして、納屋の扉の方向を仰ぎ見る。どうやら納屋の外はもうすでに夜に飲み込まれているようで、月明かりが、開いた扉のその先から傾いて、斜めになって納屋へと侵入している。そして、その差し込んだ月明かりに浮かんだシルエットは、大男のものであった。

 大男は――三度笠を深く被って、縞の合羽を羽織り、古びた、使い古された草履に足を滑り込ませている、少しばかり時代錯誤な服装をしている。しかしながらその身体は屈強であり、縞の合羽からぬうと現れる両腕は逞しく、剛健であった。草履を履くその足は丸太のようである。

 大男はその大きな手を、納屋の扉、その隣に打ち付けられている楔に吊られていた、一丁の火縄銃Ⅱへと伸ばす。古びた代物で、縄は黒く染まり、撃鉄の塗装は、何度なく撃ち抜いたその名残であろうか剥げてしまっている。けれどその銃はかなり丁重に手入れが施されているようで、一切の錆も、一片の欠けさえも見当たらなかった。

 彼はその火縄銃を手に取ると、手の中で何度か回して、手触りを確かめるようにその銃身を撫でる。その輪郭を辿るように、撃鉄を囲む鉄の輪をなぞり、持ち手の木の部分、その粗に触れると、その曲線をまじまじと眺めていた。

 大男は――ひとつ、大きくため息をついた。吐き出された空気は白く化けて暗闇に渦巻くと、やがて深夜の暗闇の中へ溶けていく。僕はその様子をじっと、ただただ、静かに――眺めていた。

 やがて大男は振り返ると、納屋の外へと、ゆっくりとその大きな足を踏み出して外の深夜へと歩き出した。その様子を確認すると、マグカップ売りの少女は、僕の口元から、彼女の左手をゆっくりと離した。

「行ったようですね。」

「――さっきの大男は、いったい……?」

「彼は……この世界の住人でしょう。さきほどのお方に心当たりがないのでしたら、それなら、虚構である可能性もあるけれど――しかしながら、あなたの望むべき景色の事象ですから、少なくとも、間接的にでも、あなたに関係のある人物であると思います。少なくとも、彼が無関係であることはないでしょう。」

 無関係ではない。

 しかし、当然ながら僕は大男に関する記憶なんて持ち合わせているはずもなかった。覚えていない。記憶していない。そのことを鑑みたその瞬間、僕の心の内に不思議な疑惑が現れ始める。ここは何処なのか。僕は何処に居るのか。不明瞭が多すぎる。誰が誰に関与して、どの事象がどの事象に影響し合っているのか、それがちっとも理解できない。

 僕の思考がまとまりを得るよりも先に、彼女は僕の手を取って、その藁の中から唐突に飛び出した。黄色い藁を掻き分け、地面に足を下ろして――次の瞬間、納屋の入口から僕達は、森林深くをゆったりと揺れている松明の炎を見つける。大男だ。大男は――そこにいる。

「どうしたのですか」僕は訊く。

「追いかけるに決まっているではありませんか。彼の向かうその方向に、あなたの望む景色がある。彼はあなたの望みに関連しているのですよ。それを追い掛けなければ、あなたの望む世界にも、たどり着くことは叶わない。」

 そう言うと、彼女は――それから唐突に、何処から取り出したのであろう、赤色と白色が交互に織り混ざった風車を二輪取り出すと、ひとつを僕に手渡した。彼女は、その手に残る一輪に向かって息を吹きかける――すると、その風車は唐突に、ぽん、と小さな破裂音を鳴らして、彼女よりも大きな、竹馬くらいの大きさにまで、巨大化した。彼女はそれに向かって軽快に跳ぶと、その茎を抱きしめるようにして、風車に飛び乗る。すると、風車は途端に、小さな音を立てながら、まるで飛行機のプロペラのように、くるくると回転を始めて――それから、ゆっくりと移動を開始した。

 僕は慌てて、彼女に置いていかれないように、彼女と同じ手順で、その花弁に向かって息を吹きかけ風車を変化させると、それから勢いよく、その茎に向かって飛びついた。落とされないように、両手を絡めて、両膝の間で挟んで、自分の身体を固定する。すると、風車は唐突に飛翔を始め、そのままふわり、と宙に浮き出して、緩やかな飛行を開始した。

 変哲で奇妙な空間がそこには存在していた。

 空には満天の星空が広がっている。星座に僕はあまり詳しくはないのだけれど、その星座が、秋の終わりに夜を見上げれば、誰にだって見られるものであるということは、僕にだって理解することは出来た。つまりこの世界の季節は、秋と冬との境界線に存在しているのである。そして、そんな夜空の麓を、大男は脇目も振らずに歩き続けている。

 僕はようやく、彼女の隣に漕ぎ着けると、一緒になって、森林を切り開くように歩く大男のことを、見守った。

 大男は、道の先の行き止まり、小さく輝く何かに向かって、一心に歩いているようだった。右手には火縄銃。左手には松明。上空から見えるその表情は、暗闇で隠れてしまっているものの、しかし本当に、植物のように密やかで、それでいて、狼のように鋭いものであった。まるで自分がその森の中心であり、その森の長であるかのような雰囲気を潜らせている。僕は彼が、まるでこれから人生の決着をつけにいくかのように、確かな覚悟を胸に秘めているのだと、直感した。

 男は三度笠を揺らしながら、何の物音も介在させない、静寂の森林の最中を歩き続けている。火縄銃の縄は小さく揺れて、その真夜中の暗闇を引っ掻いていた。森の中にも、もう獣の類は存在していないか、或いはすでに眠りについてしまったのだろう、木々の微細な揺れさえも、その夜風の影響を省けば、在りはしないのだった。

「彼はどうやら、狩人のようですね。」

 マグカップ売りの少女がそう、風車の花びらの下でそう言った。

「何を狩るのでしょう?」僕は彼女に意見を求める。「彼は何を殺して、何を撃ち、貫くのでしょうか。こんな深夜に、獣でさえも、眠ってしまうような真夜中に、いったい何が、彼の標的となるのでしょう?」

 彼女は応える。

「彼は夢を狩るのですよ――そうですね、もっと確実で、分かり易い言い方を用いるとするならば、夢想を狩るのです。現実ではない何かを、たとえばそれは怪異であったり、妖精であったりするそれを、彼は狩っているのでしょう。思考の断片を、真相の欠片を、言霊を。」

 夢想を、怪異を、妖精を――狩っている。

 それならば、その火縄銃は、何かを殺すための猟銃と考えるよりは、何かを祓う為の、追い払う為の、魔除けの為の号砲なのであろう。縄に火を灯して、火薬を打ち出して――鉛を撃ち出す。それは怪異の闇を払って、暗闇を駆け抜けていくことだろう。

 ――待て、魔除け……?

 僕は確信する。

 何か、思い当たることがあるはずだ。新しい記憶に埋もれてしまった、忘れてはいけないはずのその記憶のことを。色褪せた写真のように、鎖で綴じた書物のように、それは封印されてしまっている。隠れているのだ――それは、いったい何のことだったであろうか。どんな意味があっただろう。

 僕がそんなことを考えているうちに、大男は森林の最中、道の行先、洞窟の中へ、ゆっくりと這入っていった。マグカップ売りの少女はそれを一目見ると、僕の衣服の裾を彼女は掴んで、それからゆっくりと、大男の這入っていった洞窟の入口へと降下を始めた。

 夜風が上昇気流のように、僕と彼女の髪の毛をかき上げていた。風車の回転は段々と弱まり、いよいよ僕の両足は、夜露の降りたその草原に触れる。

 それは本当に密やかで、なるほど森林から物音がしなかったことにも、納得がいった。夜露が森林の全身に降りて、あたりの物体の動きを狭めているのだ。しっかりとそのすべてを夜の形に、まるで押絵のように留めている。

「行きましょう。早く行かねば、置いていかれてしまいます。」マグカップ売りの少女はそう言った。

 マグカップ売りの行商人で、メルヘンチックなその少女は真夜中の暗闇の中にいてもやはり、童話の中から切り取ったように、現実離れしていた。そんな彼女のことを、星空は淡く照らしているのであった。弱々しく、真夜中の暗闇に負けている。月光に比べれば頼りないその光は、しかしながら、確かにそこに存在しているのだ。

「――ああ。」

 僕はそう、少しだけ躊躇しながら、言った。彼女は僕の手を引いて、洞窟の、まるで深淵が口を開けているような、暗闇の中に存在する、さらに濃度の高い暗闇の中へと、進んでいく。僕は半ば引きずられるようにして、彼女の背中を追うような形で歩く。もはや僕に、行動の主導権は存在してはいなかった。向かう先も見る場所も、マグカップ売りの少女がすべて決め、その通りに実行する。それはあたかも、予めそうであると決まっているというふうに。

 暗闇の中に存在する、さらに濃度の高い暗闇の中では、とうとう月明かりも、星の輝きでさえも届かなくなってしまった。向かう先に見える、大男の持つ松明だけが暗闇をうち払っている。僕らはもう、足元や互いの顔ですら見ることが出来なくなってしまっていた。

「――少し、暗くはないでしょうか。」僕が言う。

「今まで、明るかった時がありましたか」

 彼女がそう、応える。

「夢とは深夜に見るべき代物でしょう。それに、誰かに灯りを求めるだなんて、それは良くないことですよ。あなたがもしも一人になった時、あなたは火を灯せなくなってしまう。そしてそれは、暗闇の中に溶けきってしまうことを意味するのですよ。こうして、手を握る相手も、本来ならば、存在しないのですから。」

 存在してはいけないのですから。人間には。

 彼女は僕の耳元に口を近づけ、囁く。

「思い出せば良いんですよ。楽しかった思い出を。記憶とは財産ですからね。それでいて、いつ思い出しても飽きないでしょう。無くなることもありません。永久に、あなたが塵となってしまうまで、あなたの傍にあり続ける。そういうものでしょう、思い出とは。あなたがそれを忘れてしまっても、楽しかった思い出は、愛しい思い出は、あなたのことを忘れることは無いのですから。」

 思い出す。

 出す――そうだ。記憶とは本来、しまうものである。ならば、取り出して眺める時間が、人間には必要なのではないだろうか。ずっと大事に収納したままでは、いずれ記憶は埃を被って、忘れ去られてしまう。

 僕の思い出。楽しかった思い出。

『母さん、彼岸花のようだ。』

 ――ふと、そんな台詞が、頭の中をこだました。頭蓋の中を反響し、跳ね返っては交差して、いずれまた、混ざり合い重なり合い。それはまるで、音を置き去りにするかのように、繰り返し繰り返し、鳴り響いては鳴き合った。

 彼岸花のよう。

 僕は思い出す。記憶を、探り出す。


 僕が七歳の頃の出来事であったと思う。その時は確か、夏祭りに母と二人で出掛けていたのだ。僕は、父親が早くも他界してしまったせいもあるのだろうが、比較的早い段階から、人と関わることが怖くなってしまっていた。いつかその人も亡くなるのだ――と考えると、愛することすら恐ろしい。

 加えて僕の母は、僕のことを養う為に終日、仕事に明け暮れていた。新聞配達に始まり、工場勤務や内職など。手に付けられる職はすべて掛け持ち、そうしてどうにか家計のやり繰りをしていた。だからこそ、僕の母は家にいる時間が少なく、そのため一人で留守番をしなければならず、加えて、誘ってくれる友人もいなかったので、自然とひとりきりになった。だから僕は、地域で開催されるお祭り行事には参加出来ないでいた。

 けれどもそんなある日、仕事で忙しい母がふと、僕に向かってこう言ったのだ。

『夏祭り、一緒に行こうか――』

 珍しく休暇が取れたらしい。僕は母の手を取って、色とりどりの屋台の狭間を渡り歩いたことを覚えている。はちまきを巻いて太鼓を打ち鳴らす者もあれば、優雅な着物にその身を包んでいる女性もいる。飛び交う尺八の音色と、りんご飴の甘い匂い。それは紛うことなき非現実であって、幼心ながらに僕は、とても感動したことを覚えている。

 たくさんの屋台を見て周り、僕と母はとうとう歩き疲れてしまって――そうだ、祭り会場からは少しだけ離れている神社で、僕達は一休みしたのだった。石階段が連なっていて、雑木林を背景にしている、神主もいなければ巫女もいない、狛犬には苔が付き、社の屋根には、隣に生えている樹木の枝が突き刺さって穴が空いている。そんな神社で、一休みを。

 そして。

 それから――どうなった? 一休みしてそれから、僕と母さんはいったい何をした。何を見て何を聞き、どういった順路を辿って静かな我が家に戻ったのか。

 僕は考える。思い出そうと、暗闇の中に考える。

 考える――。

『母さん、彼岸花のようだ。』

 ――あ。

 そうだ。その言葉である。その台詞である。

 僕は考える。

 何が彼岸花のように見えたのだ。何が彼岸花のように、美しく咲いていたのだ。何が彼岸花のように、美しい彩りを兼ね備えていたのだ。いったい何を見て、僕は彼岸花のようだと感じたんだ。

『そうだね、まるで彼岸花のようだ、これは。』

 母さんがそう答える。そう答えたはずだ。

 彼岸花。彼岸の花。彼岸とはあの世のことである。彼岸とは冥府のことである。それならば、此岸にあるのは、何であろう。彼岸花に対応して、まるで花ではないのに、花のような――花と言うよりは、印として存在している。からからと回って、彩りを入れ替える。


「――ああ、風車。」

 僕がそう、洞窟の暗闇の中でひっそりと呟いた、その瞬間――僕の右手の人差し指に、小さな青色の炎が現れた。熱は無く、そのため火傷の痛みもない。ただその炎は、僕の人差し指の周囲の暗闇を、手で払うようにして存在している。

 風車があった。

 ひっそりと佇む神社の、その境内の後ろ。社の背後に、たくさんの風車が――『咲いていた』。赤色と白色を交互に震わせて、それは夜風にぐるぐると回っていた。人知れず、誰かに見つかることもなく。そしてその花弁に身を潜めるように、蛍達は小さな光を灯している――それは、まるで幻想的な風景であった。蛍の光を跳ね返して、風車が回っている。草木の青を照らし跳ね返して、その光景は瑠璃色に光り輝くのである。

『母さん、彼岸花のようだ。』

 不思議な音色が、僕と母さんを結んでいた。

『そうだね、まるで彼岸花のようだ、これは。』

 その一週間後のことであった。母が過労により亡くなったのは。


「あらら。」マグカップ売りの少女が、ふと、そんな声を漏らした。きつく目を閉じていた僕は、その目をゆっくりと開ける。僕の右手、人差し指のその先には、真っ青な炎が、揺れ動いていた。

 マグカップ売りの少女は続ける。

「楽しかった思い出を、と申しましたでしょうに。悲しい思い出を、思い出されたのですね。」

「――分かるのですか?」僕は訊く。

「ええ。青の炎は、悲しみの炎です――儚くて、危うい。今にも壊れしまいそう。そういう色。」

 彼女は二、三度その洋服をはたはたと手で叩くと、それから再び、洞窟の奥、大男の行先に向かって、再び歩を進ませ始めた。僕はその華奢な背中を、人差し指の先の炎を頼りにして追う。

 大男はまだ、そこまで奥深くには這入ってはいないようで、松明のぼうっとした明るみが、暗闇の中に蠢いているのが、小さくその暗闇の先に見えた。僕と少女は、その大男のすぐそばまで走って行くと、近くの大きく窪んでいるところにその身を屈ませて、隠れるようにして息を潜めた。何処からか水滴の落ちる音が聴こえる。じわりと波紋が広がって、その水際にたどり着く、それとほぼ同時にもう一度、水滴は落ちてその音色を漂わせる。

「…………。」

 大男は、何ひとつとして――語ることは無かった。何かを述べることも、何かを祈ることも、彼は口にせずに、黙って呼吸を続けていた。彼の草履が、地面を新しく踏むことを、止める。彼は停止すると、それからもう一度だけ、深い深い深呼吸を極めて密やかに行った。大男はそして、右手に持っていた松明を地面にゆっくりと置くと、その隣に、腰を下ろした。その右手には、火縄銃が握られている。彼は何かの到来をひっそりと待っているようだった。

 まるで世界が、時を刻むことを放棄してしまったかのように、世界はありのままであって、とても静かであった。ただ、何処からか滴る水滴が、何処か 水を張っている窪地に、一定の間隔を保って落下している、その音だけが、こだましていた。大男は微動だにせず、僕と少女も、その様子を静かに、姿勢をそのままにして、見守っていた。大男は正座をした状態で、僕らに背中を向けていた。

 びくり。

 すると――ある瞬間を境に、その洞窟の雰囲気がガラリと変わった。唐突に、突然に。それはなんの前触れも介在させることはなく、しかしながら、その場にいた誰もにそう、確信を持たせるほどに、強く色濃く発生した。僕はあまりの変わりように、思わず身を乗り出して、大男の反応を見る。大男はしかしながら、火縄銃を手にしたまま、ほんの少しの震えさえも表さなかった。

 一筋の光芒が――その空間に、現れた。それはやがて、眩い乱反射となって、まるで閃光弾のように洞窟内に輝きを撒き散らした。僕は思わず、あまりの眩さに目を閉じて――左手で、その輝きを防いだ。そして、その左手の人差し指と中指の間から、大男の動向を見ていた。

 僕は驚愕する。

 大男の目の前に――いつの間に現れたのだろう、大きな大きな雄牛が悠然と、大男に面する形で存在していた。雄牛は艶やかな金色の体毛に覆われて、その瞳や鼻先までもが、一本一本、硬直して独立した体毛に隠れてしまっていた。突き刺すような、皮膚を突き破った骨のような鋭い一対の角が、洞窟の暗闇を引っ掻いている。針のようなその体毛は、しかしながらまるで蜃気楼のように、その先端を消失してしまっていた。

 雄牛はまるで幻影のように妖しく透き通っていた。雄牛は、まるで青空を掬って、それをそのまま樹脂に混ぜ込んだかのような青色の透明に覆われている。それはまるで、海の一部分を雄牛の形にくり抜いたかのように、実に正確で、それでいて不正確であった。

 不気味に青く光るその雄牛を見つめて、僕はそっと、音を立てないように唾を飲み込む。洞窟内に、緊張が走っていた。歪な空間、作りの荒い奇っ怪な空間が音を立てて笑っている。大男はその最中で、静かに――火縄銃を、取り出した。

 大男は静かに火蓋を開くと、火皿に口薬をしばらく注ぎ込み、それから火蓋を一度閉めて、火縄に松明の炎を少しだけ分け与えると、まるで蛍のように脆く乏しく弱々しいその炎を、ゆらり、と火鋏に引っ掛けた。火縄銃は、火鋏に挟んだ着火された火縄が、引き金を引くことによって火皿に落ちることで発砲する。つまりは、大男は――撃とうとしているのだった。その、青々と光る雄牛を。

 静寂を掻き分けるように、彼は暗闇をその銃口で引っ掻きながら、火縄の灯りで弧の形をなぞると、眼前の雄牛、その額へと狙いを定める。

 くう、と何度か吸って吐いて入れる。

 雄牛はその銃口を、まるで覗き込むように見ていた。そしてその雄牛の姿を、大男は少し高い位置から、目線を斜めにして見ている。銃口を見る雄牛を見る大男を、僕達は見ている。

 ――順巡り、だ。

 順巡りとは山口県に伝わる伝承である。地を這うミミズをカエルが呑み、そのカエルをヘビが喰う。そしてそのヘビを、今度は鷹が襲う。その様子を見ていた猟師は、鷹を撃とうと銃を構えたその瞬間にふと考える。ミミズを襲ったカエルがヘビに襲われた。そしてヘビは鷹に食われている。それならば、その鷹を自分が狩れば――今度は自分が、『狩られる立場になるのではないか』。猟師がそのことを確信すると、次の瞬間、森の奥から声が聞こえる――「猟師よ、命を拾うたな。」

 順巡りだ――僕はいったい、誰に見られているのか。銃口の暗闇、円かに窪んだ深淵から始まる順巡り。僕らは誰に見られているのだろう。いや、それよりも、僕はいったい何を見ている? 何を見て、何処にいる。何時にいる。此処はいったい、何処だ。何時だ。

 暗闇の中に、誰かいるのか。

 誰かいるとすればそれは誰だ。僕は誰に見られている。夢想を狩るのだ、とマグカップ売りの少女は言った。夢想とはなんだ。僕が望む光景とはなんだ。

 思い出せ――思い出さなくては、僕はいつまでも気づけないままだ。この暗闇は何だ。暗闇とはなんだ。黒とはなんだ。僕は潜在的に何を望んでいる? 思い出すんだ、僕の望みは、少なからず僕の過去に由来しているはずだ。僕の過去に何があった?

『愛しい思い出は、あなたのことを忘れることはないのですから。』

 父さんが早くに死んだ。僕は母さんと生きてきた。

『あなたは火を灯せなくなってしまう。そしてそれは、暗闇の中に溶けきってしまうことを意味するのですよ。』

 母さんは僕の為に働いた。僕が学校に行けるように、他の子供と枷なく接することが出来るように、母さんは働き続けた。働き詰めた。両手を傷だらけにして働いた。

『あなたの記憶の奥の奥の奥に、やってきたのですよ』

 この景色は、この世界は、僕の記憶に関係している。それはいったいなんだ。僕はどうして此処にいる。僕はなぜ、学費を稼ぐ為に必死に働いている? 僕はどうして朝早くに自転車を漕ぎ出し、新聞を配達しているのだ。

 どうして僕は、訪れたこともないこの景色に、この世界に、胸を締め付けられる?

 母さんは――過労で死んだ。僕のために。

 僕の所為で。

『忘却世界の片隅に、踏み込みましょう。』

 僕はいったい、『何を忘れている』?

 ――その瞬間、電撃のような衝撃が、僕の身体を縦に貫いた。思わず僕は目を見開いて、爆発的な驚愕を逃がそうとしてか、大きく口を開けた。体内で大花火が花開いたかのように、それは僕の心の琴線を荒く、しかしながら的確に揺れ動かした。心拍が加速する。心臓が暴れだし、全身は硬直する。

 大男が、引き金を引いたのである。

 火皿に火縄の炎が飛び込んで、瞬間、火薬を爆発させたのだ。爆発する火薬に押し出されて、弾丸はそのまま真っ直ぐに、雄牛の額へと飛び込んで行った。雄牛の額に飛び込んだ弾丸は、その表面に大きな波紋を複数個作り上げて、その半透明な姿を貫いた。貫いてそれから、洞窟の奥の方へと吸い込まれて、まるで花火の散り際のように、安らかに消え去ってしまった。

「水琴鈴だ――。」

 僕はそう、意図せず呟いた。

 銃声の跡をつけるように、弱々しい水琴鈴の音色が、しゃららん、と弱く鳴っている。その瞬間を、僕は聞き逃さなかった。それは確かに、あの音色だった。後ろ髪を引くような音色。僕が救われ続けてきた、あの音色だった。

 雄牛は、まるでその体内に含んでいた光を破裂させるように、洞窟の暗闇、四方八方へと光芒を撒き散らしていた。やがて雄牛は倒れると――小さな小さな光の粒に変幻して、ゆらり、ゆらりと火の粉のように暗闇を流離う。

「水琴鈴……?」

 マグカップ売りの少女が、そう尋ねる。

「思い出されたのですか、あなたの望む光景を。あなたが願う世界の姿を。」

「ああ。」僕は曖昧に答える。曖昧に答えて――それから、一度組み上げたパズルを、間違いがないかもう一度上から見下ろすようにして、その過去の出来事を、物語の端くれを、静かに、静かに、語り始める。

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