sequence 1 ろじうらのよびごえ part 5

 目も口も鼻もない、その異形のナマコヘッドに気付いている人は俺以外にはいないようだった。背後にぴたりとくっ付かれているその女子生徒ですら−−むしろ俺の凝視に驚いている様子だった。俺は忙しなくその女とナマコ巨人を見比べる。


「あ〜、えと、コウちゃんもしかして知り合い?」

「いや違う。何でもない」


 たぶん客観的に見たらほんの数秒だったのだろうが、とても長い時間に思えた。シュウに声をかけられた瞬間に頭の中の霧が晴れるようにして我に返るとき、ナマコヘッドは人混みに紛れるようにしてナツキから離れていった。朝目撃した白い獣もそうだが、ああいう奴らは人混みに紛れて姿を消すんだろうか?

 湯島ナツキが警戒するようにおずおずと店内に入ってきて、シュウと俺を見比べながら声をかけた。意外にも落ち着いた声だった。


「近條さん、ですよね。はじめまして、湯島ナツキです」

「はじめまして近條です!崇道さんとは以前取材でお世話になりまして。こちらは同じ新聞部で記事を書いている睦ノ宮くんです」

「どうも…」


 俺の心臓はまだ激しく打っていて、無愛想極まりない挨拶をした。崇道と言うのは、以前俺たちが怪談の取材をした女子高校生で、ナツキの友人だ。ナツキは俺たちの向かい側のひとりがけのソファに腰掛けると、目を伏せたまま数秒沈黙した。シュウはスマホのメモを準備しながら様子を伺っている。確かに店内は冷房が効いているが、身震いするほどの冷気が俺の腕に当たったような錯覚がした。


「あの…」


 ナツキが口を開いた。


「妹は、化け物に取り憑かれていると思うんです」


−*−


 それはアンタだろ、とツッコミを入れたくなったがグッと堪えた俺のことなどお構いなしに、小さく力のない声で話すナツキと、真剣に(少し嬉々として)聞くシュウの会話は続いた。俺は幾分冷静さを取り戻した頭の中で情報を整理した。こういう時、シュウはスイッチが入ったように話を聞く態勢になるから、俺は黙って様子を見守るだけだ。


 湯島ナツキの妹−湯島アキ−が行方不明扱いで警察に捜索願が出されたのが6月20日。部活の帰りの夕暮れ時、友人と別れてから行方が分からなくなり、3日間失踪する。3日後の6月23日夕刻、自宅のすぐそばで気を失って倒れている湯島アキを母親が発見し保護する。命に別状はなく、怪我や暴行の跡もなかったが念のため医者に見せるも異状はなし。荷物も全て残っている状態だったものの、失踪中の記憶がなく、犯人の手がかりもなかった。


「ツイートを削除したのは妹のためです。感情的になってしまって投稿したけど、やっぱり妹を傷つけちゃうかなと思って。だからこのことはあまり大っぴらにしないで欲しいんです」


 いやちょっと待て、と俺は言いたくなったが、シュウは眉一つ動かさず神妙な面持ちで受け応えていた。


「お気持ちわかります。おつらいですよね。でも、どうして私たちに?」

「他に私の見たものをお話しできる人が居なくて。近條さんと睦ノ宮さんならこういった事件を解決してくれるとお聞きしたので」

「いや、俺たちはそんなんじゃ…」

「詳しく聞かせてください」


 たまらず口を挟んだ俺を制し、シュウは話の続きを促した。どういうつもりだシュウ、と心の中で非難する。正直この女にこれ以上関わるのは俺はごめん被りたかったし、買いかぶりすぎだ。俺たちはただの高校生だぞ?


「私見ちゃったんです。妹が夕日の差し込む庭で誰かとぶつぶつ話をしていて、最近ずっと様子がおかしかったから声をかけないでそっと近づいてみたんです」

「何かがいた?」

「大きな黒い蛞蝓(なめくじ)みたいな、すっごく気持ち悪い何かでした。それに妹が慣れた手つきで触っているんです。私怖くて怖くて、それから妹の顔を見ることができません」

「え?なんて言った」


 俺は、にわかに先ほど自分の目で見た異形の怪物の姿を連想する。両生類のような粘液をまとったぬめりのある体表と、毒々しい模様。そしてなぜかスーツを着た巨大な人型の何か。


「黒くて、緑色とかオレンジ色の気色悪い模様ですか?」

「いえ、そこまでまじまじとは見ていなくて。でも、そんな感じだったような…睦ノ宮さん何かご存知なんですか」


 ナツキは、不意を突かれたように目を丸くして初めて俺の顔を真っ直ぐに見た。輪郭にはあどけなさが残るが、切れ長の目と整った顔立ちをしている。肩まで伸びた漆器のような黒い髪はしっかりととかされていて、よく見るとなかなかの美人だ。まぁそんなことはどうでもいい。シュウは俺たちのやり取りを見守っている。


「いや、はっきりとはわかりません。もう一つ質問していいですか」

「え…はい」

「濃紺のスーツを着た背の高い人、ナツキさんの周りに居ませんか?」

「濃紺のスーツ…背が高い…それが何か関係あるんですか。もしかして…」

「わかりません。でも、知ってたら教えてください」


 何かを悟ったのか、諦めたのか、はたまた悲しみや怯えともとれる複雑で微妙な表情をしてナツキは答えた。


「私のマネージャーです。私、実は雑誌の読者モデルをやっていて、そのマネージャーの方が背が高くていつも濃紺のスーツを着ています」



−*−


 湯島ナツキと別れて、あおい通りのスターバックスを出る頃には17時を少し回ったところだった。ナツキはすっかり俺のことを霊能力者か探偵かなんかだと勘違いしていて、次の休日に湯島アキに会ってくれないかと懇願された。俺だってどうしてあんなものが見えたりしたのか自分でも分からないし、あんな化け物と対峙してもどうしたらいいか分からないから(それと一緒に住んだり一緒に張り付かれてるナツキは気の毒だが)約束はしなかったが、何かあればまたシュウに連絡が行くようだ。

 朝から不可解なことが立て続けに起こっていて、俺は内心へとへとだった。頭の整理が追いつかない。シュウはジャーナリストスイッチが切れてもとのお気楽ガールに戻っていた。


「コウちゃんなんであんなこと聞いたの!?何か隠してる!ちゃんと相棒に教えなさい!!」

「なんだよ相棒って、もう探偵気取りかよ…。俺にもよく分からないんだよ。なんかそんな気がしただけ」

「うそだ!なんか隠してる!」

「ちょっと俺も疲れてるみたいだ。頭の整理がついたら話す」


 あのスーツ姿のナマコヘッドと黒いナメクジが同じ存在だとしたら、それを繋ぐのは他でもないナツキ自身だ。しかも、俺が見たスーツの特徴はナツキのマネージャーが好んで着るというスーツにそっくりなようだった。ナツキとあまり関わり合いになるのはシュウにも危険が及ぶように思えた。


「あのさ」

「どうしたの」

「シュウ、今回のことはちょっと怪談とか怖い話じゃ終わらないかも知れない。あんまり深入りするな」

「え…」


 俺は思わず、先を歩くシュウの腕を掴んで立ち止まった。傾きかけた太陽を背にして振り返った表情はよく見えなかった。



To be Continued...


*この物語はフィクションです。実在の人物や団体とは一切関係がありませんので、本文中の表現をそのまま受け取ってしまう純粋ピュアな読者の方は、ご注意下さいませ。

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