第四章 イナとフリアの因縁

 ぼくはぱっと目を覚ました。満天の青空が、ぼくを出迎える。それと同時に、女の人の顔がぼくを覗き込んだ。

「あら、目を覚ましたの?」

 女の人は、左手で鍋の中身をかき混ぜながらぼくを見つめている。ぼくはそれを見返し、それから体を起こした。


「あ、あの……ぼくは……?」

「突然倒れて、意識を失ってしまったって、カーロが」

「あなたは……」

「また忘れたの? イナよ」

「イナ……」


 ぼくは青空を見上げた。当然のことながら、そこに月の姿は見えない。夢から覚めたらまた夢だった、なんてこと、あるのだろうか。いや、あってほしくない、そんなこと。


 それからまた、イナの方に目をやった。鍋からはいい匂いが漂ってくる。しかし、ぼくは覚えていた。あの、何かに取り付かれたように暴れ、フリアを殺害したイナの表情を。


「ぼうっとしているみたいね。顔を洗って来たらどう?」


 ぼくは言われた通りのぼうっとした表情で頷き、そしておずおずと聞いた。


「あの……大丈夫、だった?」

「え、何が?」

「フリアとか言う、魔物に襲われて……」


 イナははっと目を見開いた。すぐ、鍋に視線を落とす。


「ごめんね、また、抑えられなくて。フリアを見ると、どうしても、まだ駄目みたい」

「何が……? どうして……?」


 それでまた、イナがこっちへ目を向けた。口元に呆れたような微笑が浮かぶ。

「本当に覚えてないのね、ロイ。なんだかおかしな感じ」


 首を傾げると、イナは笑みを引っ込めて言った。

「……私の妹、フリアに殺されたのよ」

「え……?」

「フリアは、子供を食らうでしょう。殺されたの、リィミは。――本当に小さかった頃に」

 そう言って、イナは虚空を睨みつけた。


 今のイナに似た瞳を、見たことがある。ぼくの兄ちゃんは、時々そういうような目をしている。イナほど、痛烈な感情ではなかったのかもしれない。憎しみと呼べるほどの表情でもなかったような気がする。何に対してかも、分からない。でも、似ていた。


 イナがきょとんとした目をこちらに向ける。

「ロイが私のことを忘れるだなんて、本当におかしな感じ」


 そこで、ぼくはなんだか不思議な感覚にとらわれた。忘れるという表現は、この場合適切なんだろうか。ぼくは元々、ロイじゃない。ロイという名前の少年の夢を見ているだけの、黒井隆広というただの中学生なんだ。

 黒井隆広……二人とも、ぼくのことをロイと呼ぶけれど、本当の名前は、隆広なんだ。なのに……。


「ロイ、大丈夫? まだ横になっていた方がいい?」

 イナが心配そうにかけてくれた声を無視して、ぼくはおもむろに立ち上がった。立ち眩みがして、ほんの一刹那視界が真っ黒になる。でも倒れないように、しっかりと足で踏ん張った。

 そしてよたよたと歩き出した。さっきイナは川へ行って顔を洗ってこいと言った。早くそうして、さっぱりと目を覚ましたい。


 そのとき、右手に槍を、左手に鹿のような大きな角を持った動物をぶら下げ引きずる、長身の男が前から歩いてきた。

「ロイ、目は覚めたのか」

「カーロ……さん」

「記憶喪失はまだ治らないみたいだな。そろそろ洞窟に突入するっていうのに、大丈夫なのか」

「洞窟……」

「それも忘れたのか。諸悪の根源、魔王の洞窟だよ」

 そしてカーロは、おそらく食用の獲物なのだろう、角の生えた動物を引きずりながらイナの下へと戻り、ぼくは反対方向の川へと足を進めた。


 吐き気がする。ぼくはそれを振り払うように、清水に腕を浸し、ばしゃばしゃと顔を洗った。すると一気に頭が冴え、ぼくは顔から水を滴らせたまま上を見た。


 昼間だ。もしかして太陽も二つあるんじゃないのかと疑ったけれど、さすがにそれはなかったらしい。ぼくの住む地球から見た太陽と同じ姿で、一つだけ、輝いている。


 その直射日光に、目眩がしそうになった。それで、また川の水面に目を戻す。その時ぼくは、目を疑った。


 川の水面に映るのは、ぼくの顔じゃない。それはもちろんだ、だって今のぼくは、ロイという名前の別人なのだから。でも、違った。映っていたのは、おそらくはロイの顔でもなかったのだ。


「誰……?」

 鏡に映ってぼくに問い掛けたのは、兄ちゃんの顔だった。

「兄ちゃん……?」


 兄ちゃんの顔が、ぼくに向かって、ぼくのことを兄ちゃんと呼ぶ。そんなおかしなことが、あってたまるものか。ぼくは思い出したように、ぱっと顔を上げて水面から目を逸らした。自分の意識とは関係なしに、体がぶるぶると震え出す。


 そのとき、ぐるると唸る、獣のような声を聞いたような気がした。ぼくは何気なくそちらに目をやって、――そして目を見開いた。


 まるでライオンのような顔だった。でも、肢体は山羊の体だ。そして、普通なら尾が生えているはずの所からは、蛇が五匹も六匹も突き出していて、しゃあしゃあといけ好かない喚き声を上げている。


 しかも――しかもだ。そのライオンもどきは、この前のフリアみたいに一頭だけじゃなかった。十頭ぐらいの群れをなして、全員が全員、ぼくのことを睨みつけ、凶暴な目つきで唸っていた。

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