第103話 レティシアとしての自覚

「さすがは伝説の英雄。こうも早く、わしらの前に姿を現すとは」


 床一面に描かれた魔法陣の中央に、黒い台座が置いてある。その上に乗せられているのは少し大きめの水晶球だ。中には星の輝きに似た小さなかけらがいくつも内包されている。

 窓のない部屋の中、佇む影は二つあった。


「核心に迫るのは時間の問題じゃな」

「排除する?」


 どこかしら楽しげに、子供の声が訊ねてくる。それに緩く首を振って否と諭すのは、藍色の法衣を着た老人だ。


「あやつとの戦いは、できれば避けて通りたい。わしらはまだ目覚めを待つ段階じゃ。勝てる見込みは少なく、唯一の切り札リシュレナもあやつの手の中にある。今はまだ動く時ではない。お主も魔犬でいたずらに刺激はするな」

「しばらくは様子見ってこと? つまんないな」

「あやつが闇の正体を探っているうちに、わしらは目覚めに必要な生気を集めるのじゃ。幸い呪眠に関しては、わしらにすべてを任せてくれた」


 しわがれた声が、喉を鳴らしてくつくつと笑う。


「気付いた時には、すべてが手遅れとなっているじゃろうな」


 あやしい笑みを浮かべて覗き込んだ水晶の表面に、藍色の法衣を纏った老魔道士パルシスが映る。その背後では子供の姿をしたカミュが、無邪気すぎる笑顔を浮かべながら水晶球をじっと見つめていた。



 ***



 リシュレナがアレスたちと共に旅立つことを知らされたのは、エヴァの看病をしている時だった。少し席を外したヴィンセントがカイルを連れて戻ってきた時にそう聞いた。

 短い間に話が決まっていたことには驚いたが、今後に不安を抱いていたリシュレナにとってはむしろ願ってもない話だ。

 これでまた、アレスと一緒にいられる。

 自分を狙う闇に対して恐怖心がまったくないわけではなかったが、それ以上にリシュレナはアレスとの旅を心の奥で密かに喜んでしまった。


 アーヴァンに戻ってから三日目の夜。十分な休息と準備を終えたリシュレナは、旅立つ前に挨拶をしようとエヴァの執務室を訪れていた。

 エヴァの自宅は別の場所にちゃんとした家があるのだが、仕事の多い四賢者たちは執務室の奥に寝泊まりできる自室が用意されている。リシュレナが学生寮へ引っ越してからは、エヴァも自宅よりこの執務室にいることのほうが多くなったようだ。


 眠るにはまだ少し早い時間帯。それでも既に湯浴みを終えていたエヴァは、いつも結い上げている髪をほどいた姿でリシュレナを出迎えた。


「どうしたの? 明日は早い出発でしょう」

「ごめんなさい、エヴァ様。少し、お話したくて……。体調はもう大丈夫ですか?」

「ええ、心配させてしまったわね」


 執務室のテーブルに、エヴァが淹れたてのハーブティーを置く。優しい香りのする淡黄色のハーブティーは寝付きをよくする効果があり、幼い頃にリシュレナもよく飲んだものだ。

 懐かしい味にほっこりしていると、肩の力が抜けていくのを感じる。明日の旅立ちに少なからず緊張していたのかもしれない。


「もしかして、不安になっている?」

「話が大きくなりすぎて、ちょっとびっくりしているところはあります」

「そうね。最初は悪夢の正体を突き止めるだけの話だったものね。私もだけど、他の賢者たちも驚いているわ。あなたの夢と、各地で起こっている異変が繋がっているかもしれないだなんて」

「呪眠……。やっぱり起こしているのは銀色の堕天使、なんですか?」

「断定はできないけれど、深く関与していることは確かだと思うわ。そういえば、あなたもカロートの町で見たのよね?」

「はい。でも一瞬で、どんな姿をしていたのかまではわかりません。銀髪であることは間違いないんですけど……」


 リシュレナがカロートの宿屋で見たのは一瞬だ。窓の外を駆け上がる銀髪の人影。体は黒いマントですっぽりと覆われていて、頭には目深にフードを被っていた。フードからこぼれた銀髪が月光にきらきらと光る様はありありと思い出せるのに、リシュレナの記憶に銀色の堕天使の顔は残されていない。


「銀色の堕天使が何者であれ、今のあなたが気にかける必要はないわ。呪眠に関しては私たち四賢者が引き続き調査を行います。あなたはあなたに託された役目をしっかりとやり遂げなさい」


 エヴァの声の雰囲気が変わった。育ての親ではなく、水の賢者として語るエヴァにリシュレナも姿勢を正す。


「リシュレナ。明日からは常に闇と隣り合わせの危険な旅になるでしょう。魔界王を追うならば、それ相応の危険もついてまわるはず。でも、負けてはだめよ。あなたには帰る場所があるのだから」

「はい。きっと、大丈夫です。アレスが一緒ですから」

「あなた……アレスと、呼んでいるの?」

「……えっ?」


 一瞬、何を言われているのかわからなかった。リシュレナを見つめるエヴァの顔は親でもなく、ましてや四賢者のそれでもない。纏う気配はかろうじてやわらかさを保っているものの、真綿の隙間から滲み出たどろりとしたはエヴァの表情を仮面のように硬くした。


「えっと……エヴァ様? 違うんです。敬語を使わないでほしいって、そう言われたから」


 エヴァがアレスと会ったのは、帰ってきたリシュレナたちを出迎えた時だけだ。その後すぐに倒れたエヴァは、アレスが他の者たちとどのようなやりとりをしたのかを知らない。畏まった席を苦手とすることも、パルシスたちにも同様に接してほしいと告げたことも知らないのなら、リシュレナがまるで友のように軽々しくアレスの名を語ることに苦言を呈するのもしかたのないことだ。


 そう思うのに、リシュレナはエヴァの突き刺さるような視線を正面から受け止めきれないでいる。

 後ろめたいことなど、何もないはずだ。なのに、どうしてこんなにもエヴァの視線を恐ろしいと感じてしまうのか。向けられる水色の瞳は冷たく、まっすぐにリシュレナの心の奥を暴こうとする。

 敵意にも似たエヴァの視線は、まるで――女の嫉妬そのものだ。


「エヴァ様。私……何か、気に障るようなことでも」

「気に障る? まぁ、どうして?」

「……もしかして、エヴァ様」

「何の心配をしているの? 私が彼を好きで、あなたに嫉妬しているとでも?」


 改めて言葉にされると、そう思っていた自分自身がひどく厚かましい女に思えてしまった。アレスと会ったのは自分のほうが先で、明日からも一緒に行動できる優越感のようなものが無意識にリシュレナの心を浮つかせていたのかもしれない。

 自分は特別だと。アレスに惹かれるのは運命で、この思いには正当性があるのだと、そう本気で思っていたことを気付かされる。


「……ごめんなさい」


 普段からは想像もつかないほど刺々しいエヴァの視線に耐えきれず、リシュレナは怯えるように俯いた。

 膝の上で拳をぎゅっと握る。飲みかけのハーブティーはテーブルに置かれたまま、二人の間に流れる空気に触れて急速に冷めていく。まるでリシュレナの心のようだ。


「顔を上げて、レナ。今のはお芝居なの」

「……え?」

「あなたを試したの。びっくりさせてごめんなさいね」

「試した……って」


 エヴァが何を言っているのか、その意図をリシュレナは図りきれない。けれどリシュレナを試したという言葉は本当のようで、向かい合うエヴァからはもう先程のような刺々しい雰囲気は綺麗さっぱり消え去っている。


「レナ。あなた、彼に好意を抱いているでしょう? 目を見ればわかるわ」


 エヴァの言葉にリシュレナは肯定も否定もできなかった。

 アレスを好ましいと思っている自分を、リシュレナはもう認めてしまっている。けれどその思いは、どうやらエヴァにとっては褒められたものではないらしい。エヴァの牽制が嫉妬でなければ、リシュレナをアレスから遠ざけようとするその理由は何なのか。


「並外れた能力と人を惹きつけてしまう境遇に、あなたが心奪われる気持ちもよくわかるの。でも……好きになってはだめよ」

「どうして」


 思わずこぼれたリシュレナの声に、エヴァがさみしげな微笑を浮かべた。


「彼は、私たちでは想像もできないほどの孤独を生き抜いてきた、とてもかなしい人よ。彼の悲しみを、孤独を癒やしてあげられるのはたったひとりしかいない。レナ、それはあなたにもわかっているでしょう? 中途半端な気持ちは、かえって彼を苦しめるだけだわ」

「中途半端なんかじゃ……!」


 淡い恋心を真っ向から否定された気がして、リシュレナが反抗期の子供みたいに声を上げた。対して、エヴァは変わらず落ち着いたままだ。リシュレナを憂うようにかすかに眉を寄せて、緩く首を横に振る。


「本気ならなおさらだめよ。仮に思いが通じ合ったとしても、あなたは彼を置いて先に逝ってしまう。二度もつらい思いをさせてしまうのよ」

「それは……」

「レナ。つらいでしょうけど、彼のことは諦めなさい。……それにあの人が求めているのは、決してあなたではないのよ」


 声音は子を諭すように優しかったが、告げられた言葉の鋭さは容赦なくリシュレナの胸を深く抉った。


 厳しい言葉はリシュレナを思っているからこそだ。それはリシュレナにだってわかる。けれど、エヴァの言葉を素直に受け入れられないのはどうしてだろう。

 アレスを思う気持ちの奥に、見落としている何かがあるような気がしていた。それがずっと胸に引っかかって、エヴァの言葉を否定したくなる。自分の思いを貫きたくなる。


 それは何なのか。

 この思いは、どこから来るのか。



『アレス。あなたを誰よりも愛しています』



 リシュレナのなかで、もうひとつの声がした。

 それはいつも夢に見ていた、と同じ声だ。


 夢の中で、リシュレナはレティシアだった。レティシアの悲しみ、喜び、そしてアレスを愛おしいと思う感情もすべて、夢を通じてリシュレナに流れ込んでくる。


(レティシア……)


 心の奥に、呼びかけるように名を呼んでみる。その瞬間、リシュレナの意識の深いところでカチリと何かがはまる音がした。

 そしてリシュレナは一気にすべてを理解する。


 なぜこんなにもアレスに惹かれてしまうのか。

 なぜエヴァの言葉を否定してしまいたくなるのか。


『あの人が求めているのは、決してあなたではないのよ』


 目の前に座るエヴァをまっすぐに見つめたまま、リシュレナはキュッと唇を強く噛み締めた。


(――違う)


 声には出さない。出したところで否定されるのなら、この思いはリシュレナの中にだけあればいい。自分だけが信じていればいい。


(私が……――であるなら、この思いは誰にも奪わせない)


 ずっと見続けてきたレティシアの夢。アレスと共に旅をし、思いを重ね合ったあの日々は、もう完全にリシュレナの一部となっていた。





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