第12章 懐かしき邂逅
第104話 王妃アンティルーネ
翌朝、アレスたちは魔法都市を出立した。皆それぞれに思うところがあるようで、会話はいつもに増して少なく、風を
アレスたちが向かう場所は精霊界オルディオだ。国自体が人の目から隠されている精霊界は入国自体に許可が必要なので、アレスは前もって精霊王へ連絡を済ませている。
遠い昔にメルドールが導いてくれた精霊界は、アレスにとって忘れられない思い出の場所だ。
国全体を包む蒼水晶のきよらかな輝き。銀髪に挿した、名も知らぬ白い花の瑞々しい香り。水面に落ちたひとしずくの水音まで未だ鮮明に五感を刺激し、胸の奥、やわく脆い心が郷愁の念にせつなく軋む。
世界を見守る使命を己に課してからも、精霊界とはわりと長くまで親交があった方だ。それでも最後に訪れたのは現在の精霊王ルネリウスが即位した時まで遡る。同時にルネリウスは妻を娶ったので、精霊界は数日のあいだ祝祭が行われた。普段は鬱蒼とした時忘れの森も、この時ばかりは見慣れぬ花々があちらこちらで咲いたことを思い出す。
懐かしさに頬が緩むその反面、アレスの心の奥はかすかに震えていた。まるで弱いさざなみが波打っているようだ。
一人で世界を生き抜くために、過去には出来る限り触れないようにしてきた。それでも魔界王ヴァレスの痕跡を見逃すことはできず、結果的にリシュレナたちを伴って再び精霊界へ向かっている。
うれしいようで、でもせつなくもあって、ほんの少しだけ怖い。今まで押し込めてきた過去に触れ、当時の記憶や感情を思い出した時、アレスは三百年積み重なってきた孤独にこれからも耐えることができるだろうか。
答えは出ない。出たところで、アレスには引き返す道もない。
眼下に広がる鬱蒼とした樹海。西日に照らされてより暗く影を落とす時忘れの森、その一角に黄色い花畑を見つけた瞬間、アレスの胸の奥はまた小さな痛みに軋んだ。
薄明の空。沈んだばかりの太陽の代わりに、黄色の綿毛が仄明るく宵闇を照らしていた。
まるで星屑が産声を上げて空へ吸い込まれていくようだ。風もないのに花は揺れ、満ちる
精霊界の入口であるこの花畑に降り立つことができたのだから、アレスの連絡は無事に精霊王へと届いているのだろう。ここから精霊界へ扉を開いてくれる精霊がいるはずだと周囲を見回せば、黄色い花びらが舞うなか、いつからそこにいたのか老齢の女性がひとり佇んでいた。
「お久しぶりです、アレス様」
重さを感じない羽根のようにふんわりと揺れるペールグリーンのドレスには、草花の模様が銀色の糸で緻密に刺繍されている。白いものの混じり始めた黄色い髪は綺麗に結わえられており、その頭上には草木を編んだだけのシンプルな冠が載せられていた。精霊王が戴くものと同じ冠だったが、女性の方は一輪の青い花が挿してあった。
「アン? まさかお前が直々に出向くとは……」
「まぁ! 当たり前じゃありませんか。アレス様が連絡を絶って、どれだけの月日が流れたと思っているんです? いくら私たちが長命だからといっても、限度があります。見てください! 私、すっかりおばあちゃんになってしまったじゃないですか」
「悪い、悪い。わかったから、少し落ち着いてくれ。二人が驚いてる」
見た目は気品あふれる貴婦人の如き佇まいの女性が、口を開けば息つく暇もなくアレスに詰め寄っている。身に纏う衣装や頭上の冠から見ても、おそらくアンと呼ばれた老齢の女性は精霊界において地位のある人物なのだろう。
リシュレナの記憶にも、似た面影があった。それを裏付けるように、アレスは彼女の名を「アンティルーネ」と紹介した。
「アンは精霊界の王妃なんだが、昔のよしみで気楽に接してもらっている」
「
そう言ってくすくすと笑うアンは、まるで少女のようだ。そんなアンの様子に戸惑うアレスの姿はどこか子供のようでもあって、二人だけしか知らない過去の共有にリシュレナは少しだけアンを羨ましいと思ってしまった。
「アレス様と再びお会いできて大変うれしいのですけど……ここを訪れたということは、メルドール様の予言が的中したのですね」
「メルドールが?」
「えぇ。メルドール様はかすかですが、今回のことを予見なさっていました。世界に邪悪な兆しが現れる時、アレス様は精霊の様子を見にここを訪れるだろうと。世界を影から護るアレス様と接触を図るには、ここ精霊界しかありませんから」
アンティルーネの背後に黄色い花びらが舞う。淡く発光する花びらの残光に照らされて、黄金に輝く大きな扉が姿を現した。
「話は
***
扉をくぐった先は、城の応接室のようだった。テーブルの上には既にティーセットが準備されており、アンティルーネ自らが茶を注ぎ、アレスたちに座るよう促した。
広い室内にアレスたち以外の気配はない。この部屋全体に結界が張っているのかとアンティルーネを見やれば、肯定するように静かに頷かれた。
「人払いをしています」
全員の前にお茶を置いて、アンティルーネが先に口を付ける。そうすることでリシュレナたちの緊張を
「これはメルドール様が私に託したものです」
草花の装飾を施した銀色の箱の蓋を、アンティルーネがゆっくりと開いた。中に収められていたのは、アレスにも見覚えのある小さな水晶球だ。
「これは……魔導球?」
「はい。メルドール様が最後に作られた魔宝、魔導球。そのうちのひとつです。アレス様が邪悪な気配を探るため精霊界へ来るようなことがあれば、その時お渡しするようにと言付かっています。……本当はこの日が来ないことを願っていたのですが……アレス様。事態は予想を上回る勢いで悪化していますわ。世界を影から蝕む黒い瘴気に、精霊たちも次々と倒れています。そしてその瘴気の源は――」
「魔界跡ヘルズゲート、か」
言葉を引き継いだアレスに、アンティルーネが厳しい表情のまま首肯した。
「魔導球には、アレス様へメルドール様からの助言が記憶されています。魔導球を呼び覚ませるのはアレス様だけです。さぁ、どうぞ。手に取って、メルドール様の言葉をお聞きください」
目の前へ滑らされた銀色の箱には、アレスが持つ魔導球と同じ水晶球が澄んだ輝きを失わないまま収められている。球体のなめらかな面に映る自分の顔が少し緊張しているように見えるのは、旧知の友の姿を再び目にすることに心が逸っているからだろうか。
かすかに震える指先で魔導球を軽く弾いたあと、アレスは意を決してメルドールの残した魔宝を両手にぎゅっと握りしめた。
無意識に閉じていた瞼の奥で、ぼんやりと薄明かりが灯る。カリカリと、何かを引っ掻くような音に顔を向けると、書類に埋もれた机の上で白い羽根ペンが忙しなく揺れているのが見えた。
大きな本棚を背にした執務机。羽根ペンをしきりに動かしているのは、紺色の法衣にとんがり帽子の懐かしい魔道士だ。彼の持つ羽根ペンが不意に止まったかと思うと、アレスを包む仄暗い世界に静寂が満ちる。
淡く浮かび上がる光の中で、紺色の魔道士がゆっくりを顔を上げた。二人の視線が重なり合った瞬間、ほとんど同時にアレスたちは互いの名前を口にしていた。
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