第102話 英雄の素顔

 会議室を出て、アレスは神殿の最上階へと続く階段の途中で足を止めていた。アレスの視線の先、階段の側面の壁には一面に繊細なレリーフが施されている。

 六枚の翼を広げた大きな龍と、その傍らに刻まれた青年の姿。彼の隣には、魔物であろう影を踏み付けて空へ咆哮する百獣の王の姿がある。

 そしてその空に昇る満月の下、月光に導かれた結晶石を抱いて涙するのは、世界を救った儚き佳人――天界の姫。


「……レティシア」


 音を伴わない声を落として、アレスがそっと、壁のレリーフへと手を伸ばした。ためらいがちに触れた指先の下で、レティシアは今もなお泣いている。その涙を拭いたくとも、アレスの指先に伝わるのは冷たい壁の感触だけだ。

 記憶に残るレティシアは今も鮮明によみがえるのに、アレスはもう彼女の肌のやわらかさを覚えてはいない。季節が巡るたびに記憶は一枚ずつ葉を落とし、そうやって少しずつアレスの中からレティシアの影を奪っていくのだ。


 レティシアの熱も声も知っているはずなのに、冷たいレリーフに縋って必死に記憶を手繰り寄せようとする。そんな自分に嘲笑しながらも、アレスはレティシアのレリーフへ指を滑らせることをやめられなかった。



「おい、アレス!」


 過去へ引きずられようとしていた意識を引き戻したのはカイルの声だった。レリーフから手を戻して振り返れば、階段の下でこちらを睨みあげているカイルと目が合った。


「どうした?」

「どうしたじゃない。なんで俺まで一緒について行かなきゃならねーんだよ」

「何の話だ?」

「さっき言ってただろ。また魔界跡に行くとかなんとか」

「あぁ、それか。リシュレナが行くのなら、当然お前も行くのだろうと思っただけだ。リシュレナを守るのはお前の役目だろう?」

「はぁ? 何でそうなるんだよ。勝手に誤解するな。あいつとは偶然会っただけだ。魔界跡へ連れていく約束も叶えたし、俺はそろそろ帰らせてもらうぜ」


 そもそもリシュレナとの約束は、彼女を魔界跡に連れていった時点で終わっている。そのあと魔犬に襲われたり、アレスが現れたりしてうやむやになってしまったが、本来ならカイルはこの場にいなくてもいい存在だ。

 さっきはパルシスたちにカイルの同席の必要性を説いてくれたが、ここから先アレス本人が同行するならカイルがここにいる必要はもうないだろう。そう自分に言い聞かせて踵を返したところで、背中越しにアレスの静かな声が聞こえてきた。


「お前はそれでいいのか?」


 何もかもを見透かしたような、まっすぐな声だ。

 気に入らない。何が気に食わないのかわからないのに、カイルの胸のうちにはただやり場のない苛立ちだけが募っていく。

 アレス。この男には不安や恐れといった弱みがまるでない。完璧に見えるがゆえの不快感。嫉妬と名のつくその感情を、カイルは呼吸と共にむりやり喉の奥に押し戻した。


「いいも何も関係ない。あいつはお前が守ればいいだろ」

「俺は一人で手一杯だ」


 さらりと返された言葉に「どこが」と反論しようとしたカイルだったが、振り返ったその視界に映ったアレスの姿に、それまでの勢いを完全になくして呆然と立ち尽くしてしまった。

 レリーフを見つめる深緑の瞳はどこまでもせつなく、その視線の奥には愛しい者にだけ向けられる激しい熱情すら感じた。ここまであまり表情を変えなかったアレスの初めて見せた感情に、カイルは驚くと同時に深く胸を締め付けられる。


 そうだ。この男は、もう既に『失って』いるのだ。


「俺はあんたみたいに強くない」


 無意識にカイルがそう呟くと、アレスはレリーフから目を逸らして俯いた。深緑の瞳が少しだけ揺らめいて見えるのは気のせいだろうか。


「俺はいつでも自分自身を呪い、後悔ばかりしている」


 救いたいと願い、必ず守ると約束した。

 けれど今、アレスの手の中に残るものはなにもない。唯一の儚い希望に縋って生き続けるだけだ。

 この道を選んだことに悔いはない。けれど時折、どうしようもなく身も心も悲しみに苛まれて押し潰される時がある。


 あの時ああしていればよかったかもしれない。もっと別の方法があったかもしれない。そう、何度自分に問いかけただろうか。過去を振り返り、当時の選択が正しかったのかどうかもわからないまま、後悔だけが膨らんでゆく。


 後悔は、常に過去だ。

 アレスはもう、そこに手が届かない。

 けれど。


「カイル」


 この男はまだ、大切なものに手が届く距離にいる。


「お前は失うな。つらいだけだ」


 そう呟いて、アレスはひとり階段を最上階へと上っていった。



 ***



 メルドールの書斎の扉は、厳重な結界によって閉ざされていた。彼の残した多くの記録や文献がそのまま残されているため、この部屋自体が賢者の結界に守られているのだ。彼の知識は、善にも悪にもなる。力とは、いつの世もそういうものだ。


 扉の前に立ち、アレスは深く息を吸い込んだ。扉にそっと手を触れた瞬間、辺りの空気が嵐のように荒れ狂う。実際にはそう感じるだけの防御結界。扉に触れた者を弾き飛ばし、力の弱い者に関しては神殿の外にまで強制排除させるくらいの力を秘めた結界魔法だ。

 けれどもアレスは強風の如き魔力のうねりを全身に浴びつつも、その場所から一歩も動くことはなかった。それどころか扉に張り巡らされた結界の糸を手繰って、緻密に計算された魔法式の空白を直感的に感じ取る。


 性質の違う四つの力を束ねた結界魔法。その繋ぎ目に存在するほんの少しの隙間を見つけたアレスは、押し寄せる魔力の波に反発しながらゆっくりと手を伸ばした。

 その空白に、アレスの指先が触れる。同時にひやりとした冷気が全身を通り過ぎていく。弾力のある水の壁をとぷんと通り抜けた感覚に目を開くと、そこは廊下ではなくしんと静まり返ったメルドールの書斎の中だった。


 変わらない空間。三百年もの歳月が流れているというのに、この部屋だけは当時のままの姿でアレスを歓迎していた。


 青い絨毯を敷き詰めた部屋。彼がいつも書類を山積みにしていた机。壁一面にずらりと並ぶ本棚の前にメルドールの幻影を見て、アレスは無意識に彼の名を口にした。その声音にメルドールが振り向いて、アレスににっこりと優しい微笑みを向けてくる。

 記憶に残る最後の彼も、今のように静かに笑っていた。


「メルドール?」


 部屋の中を見回して、何となくそう呼んでみた。もしかしたら、今もひょっこりと隣の部屋から顔をのぞかせるのではないだろうか。そんなことなどあるはずもないと頭ではわかっているのに、アレスの視線は誰もいない室内を迷子のようにさまよってしまう。

 虚しい夢だ。手を伸ばす前に消えていく幻影に、もう何度心を軋ませたかわからない。それでも縋ることをやめられない自分に、アレスは諦めたように自嘲した。


 アレスはメルドールやロッドなど、親しい者たちの死に目には会っていない。自分ひとりが取り残されるこの世界で大切な者たちが死んでいくのを見るのは、さすがに堪えるものがある。


『俺はあんたみたいに強くない』


 緩く首を振って、アレスは頭に響くカイルの言葉を否定した。


「強くなんか、ない」


 過去の記憶はアレスにとって身を削る鋭い刃でしかない。それでも思い出に縋るのは、そこに唯一の安らぎがあるからだ。戻れない過去に嘆き、その過去の中にあまい虚像を求める。

 アレスが求めるものは、すべて過去にしかない。苦楽を共にした友人も、たった一人の肉親も、そして何よりも愛したレティシアも。


「……惨めだな」


 ぽつりと呟いて、アレスはおもむろにポケットから小袋を取り出した。中から出てきたのは、片手で握り込めるほどの大きさしかない小さな水晶球だ。

 それはずっと昔にメルドールから貰ったものだ。この世界にたった一人で残るアレスに、メルドールが贈った最高の魔宝。


 この小さな水晶ひとつに、アレスはどれほど救われたことだろう。喜びも切なさも同じくらいに感じたが、この水晶がなければ、アレスはとうの昔に壊れていたかもしれない。


 深呼吸をして気持ちを落ち着かせ、アレスはゆっくりと瞼を開けた。記憶に刻まれたレティシアの姿をしっかりと脳裏に思い描き、強いまなざしで手にした水晶の更に奥を覗き込む。

 アレスの視線を通じて強い意思と記憶を受け取った水晶球が、やがて淡い光を放ち始めた。やわらかな綿毛のようにふわりと光またたく水晶球の上部に、ぼんやりとした影が浮かび上がる。それは水晶から放たれる光に照らされて徐々に鮮明な姿をかたどり、アレスの深緑の瞳のなかに懐かしい幻影を映し出した。


「……レティシア」


 アレスの手のひらの上に、レティシアの姿がよみがえっていた。淡い光に照らされて浮かび上がるレティシアは、水晶球と同じくらいに小さい。けれどもアレスを見つめて微笑み返す姿は、記憶に残るレティシアそのものだ。まるでこの世界のどこかにいるレティシアを写し取っているようでもある。


 触れれば指先に熱を感じるのではないかと思えるくらいにリアルで、けれどそれは現実に実体を持たないただの虚像。レティシアの姿を水晶の中に記憶させ、持ち主の思いを感じて発動する、メルドールが作った最後の魔宝「魔導球」。

 世界に三つあると言われているが、アレスが持つのはその中でも初期に作られたものだ。のちにメルドールが残りの二つを作ったと風の噂で聞いただけで、アレスもその存在を確かめたことはない。


「お前に……会いたい」


 誰もいない部屋。誰にも聞こえないように思いを吐露して、アレスはそっと、壊れ物にでも触れるかのように幻影のレティシアへと指を伸ばした。

 アレスの人差し指の先で、レティシアが振り返る。その顔をするりとすり抜けたアレスの指先には、当然何の感触も伝わらない。せつなげに唇を噛み締めるアレスを、小さなレティシアの幻はいつもと同じ変わらない笑顔で見つめ返すだけだ。


 レティシアに会いたいと願って魔導球に思いを込めるのに、最後はいつも触れられない現実に気が狂いそうになる。わかっていても、アレスは魔導球に願いを込めることをやめられない。終わらない悲しみの螺旋に捕われているようだった。


「レティシア。声を聞かせてくれ」


 叶わない願いを口にして、アレスがその答えを自分で告げるかのように魔導球を握りしめた。その拍子にレティシアの幻影もふつりと消え、誰もいない部屋にアレスはまた、たった一人で取り残される。


 きつく閉じた瞼の裏で、レティシアがアレスに笑いかけていた。

 けれどやっぱり、アレスにはレティシアの声は聞こえなかった。



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