第100話 アーヴァン四賢者
雲ひとつないよく晴れた青空を背に、巨大な神殿が聳え立っている。隣接するヴァルティア魔法学院の喧騒を飲み込んで、凛と佇む静けさがここにはあった。この神殿にはアーヴァンを治める四賢者の執務室が設けられているため、ごくわずかな者だけしか出入りが許されていない。
昔から残る歴史的建造物ではあるが、当時のまま手つかずで残されているのは、最上階にあるかつての大魔道士メルドールの書斎だけだ。
綺麗に整頓された執務室の机の上で、占い用の水晶球が呼吸を繰り返すかように淡く点滅していた。覗き込む水色の瞳と重なって、水晶の中に白い法衣を纏う魔道士リシュレナの姿が浮かび上がる。彼女の隣に、金髪の若い男。そして美しく幻想的な蒼銀色の巨大な竜。水晶に映るそれらを目に焼きつけて、水の賢者エヴァはほぅっと安堵に似た溜息をもらした。
「来る」
薄い唇を割ってこぼれた声に返事でもするかのように、窓の外では来訪者を告げる竜の咆哮が響き渡った。
***
「神殿の入口はあそこよ。手前の長い階段なら、ロアたちも楽に降りられると思うわ」
リシュレナが指差した先は、神殿の入口から城下町に続く長い階段だ。アレスの知る魔法都市とはずいぶんと街の様子も変わっていたが、中央の神殿だけは唯一当時の面影を残している。
神殿を囲むように聳え立つ五つの尖塔。神殿の一階では若い魔道士たちが魔法の修行をしていたことを思い出し、アレスの頬が懐かしさに緩んだ。
感慨深く街を見回していると、神殿の入口から数人の魔道士が出てくるのが見えた。藍色の法衣に一瞬どきりとしたが、メルドールの法衣はもう少し濃い紺色だったと思い直して心を保つ。それに出てきた四人の魔道士は、皆同じ藍色の法衣を身に纏っていた。
「先頭にいるのがパルシス様よ。その横にいる子供の姿をしているのがカミュ様。後ろにいる男の人がヴィンセント様で、唯一の女性がエヴァ様。私の育ての親なの」
「何だよ。子供までいるのか?」
「カミュ様はああ見えてパルシス様の次にご高齢なの。とても偉い方なんだから」
老齢のパルシスを先頭にして、一歩分さがった場所に子供姿のカミュ。その二人の後ろにヴィンセントとエヴァが控えていることからも、力の序列は見て明らかだ。魔法都市アーヴァンを治める者同士ではあるが、彼らの中で一番権力を持っているのは老齢のパルシスなのだろう。現に降り立ったアレスたちの前に、真っ先に進み出たのはパルシスだった。
「竜の王たる神龍イルヴァールを従えるのは、歴史に名を残す英雄アレス様だとお見受け致します。魔法都市アーヴァンへようこそ」
パルシスに続いて残りの三人も深々と頭を下げてしまい、アレスは居心地が悪そうに溜息をこぼした。
「悪いがそういうのは苦手だ。普通にしてくれて構わない」
畏まった席は昔からアレスの苦手とするところだ。長く生きてきてなお克服する術を身につけていないアレスに、イルヴァールが密かに息を漏らして笑った。
「そうですか。……それならば、わしはパルシス。そしてこっちがカミュで、後ろの二人がヴィンセントとエヴァじゃ。四人で魔法都市アーヴァンを治めておる」
パルシスに紹介され、カミュがぺこりと頭を下げた。遅れて進み出たヴィンセントは赤銅色の短髪をした背の高い男で、纏う魔力の流れから火の賢者であることが窺える。
ヴィンセントの隣に立つのは、水色の髪を結い上げた儚い印象の女性だ。水の賢者エヴァ。リシュレナはエヴァを育ての親だと言ったが、見る限りでは二人とも年齢はさほど変わらないように見える。強いていえば、リシュレナよりエヴァの方が少し年上くらいだろうか。きっとカミュと同じように、実年齢と外見が乖離しているのだろう。
「リシュレナがご迷惑をおかけして申し訳ありません。彼女を無事に連れてきてくださり、ありがとうございます」
育ての親として感謝を述べ、エヴァが深々と頭を下げた。その視線が再びアレスに向く前に、エヴァの体がぐらりと傾ぐ。と思った時には、エヴァはもう階段を踏み外して前のめりに倒れてしまった。
「エヴァ様!」
リシュレナの悲鳴よりも先に、アレスの体が動いていた。階段を転がり落ちる寸前でエヴァの体を抱きとめ、衝撃に数段下がったアレスの背をイルヴァールの尻尾が支えてやる。
「大丈夫か?」
「え、えぇ……すみません。ありがとうございます」
手を引いてゆっくり立ち上がらせるものの、エヴァの顔はまだ青ざめたままだった。自力で歩けないのではないかと心配したが、駆け寄ってきたヴィンセントが多少強引にエヴァを引き取ったので、アレスはそれ以上二人に介入することはしなかった。リシュレナも心配してそばに来たので、アレスは二人にエヴァを任せてイルヴァールと離れた場所で見守ることにした。
「エヴァ様! どこか具合が悪いんじゃ……」
「心配しないで、レナ。少し立ちくらみがしただけよ」
「エヴァは魔界跡に旅立ったお前をずっと心配していた。無事を確認できて気が緩んだのだろう」
エヴァの手を引き、ヴィンセントがアレスに一礼してパルシスの方へと向き直る。視線だけでヴィンセントの思いを汲み取ったパルシスが、無言のまま首肯した。
「では、少しのあいだ失礼します。エヴァを休ませてから戻りますので」
そう言って神殿の方へ歩き出した二人の背を追って、リシュレナが階段を駆け上がった。
「ヴィンセント様! あの、私も一緒に行かせてください」
「……構わない。そのほうがエヴァも喜ぶだろう」
リシュレナという唯一の繋がりがいなくなり、カイルの中に急激な疎外感が膨れ上がる。この場で何の関わりもないのはカイルだけだ。押し潰されそうな圧迫感に居心地の悪さを覚えてしまい、このままロアに乗って飛び去ってしまおうかとも思った。
けれど、できなかった。
頭の中に、あの不気味な声が響いたからだ。
『魔眼の者がこんなところまでついてくるとはな。やはりあの場で喉を噛み切っておくべきだったか』
ぎょっとして周囲を探っても、魔法都市にあの魔犬の邪悪な気配はどこにも感じられない。けれど空耳にしては未だ強く不快な声音がカイルの鼓膜を揺らしている。まるで脳にじわじわと爪を立てられているかのようだ。
「ここでは落ち着いて話しもできまい。中へ案内しよう」
穏やかなパルシスの声がしたかと思うと、それまでカイルに纏わり付いていた闇の気配が一瞬にして吹き飛んだ。四賢者を束ねる者は、その声音ですら聖なる力を秘めているのだろうか。
いつの間にか呼吸すら止めていたようで、カイルはまるで水中から抜け出したかのように荒く息を吸い込んでしまった。
「おい、今の……」
聞こえたかと確認するように振り返れば、アレスは自分の右手をぼんやりと見つめているだけだった。不審に思ったのはカイルだけではないようで、彼の後ろにいたイルヴァールも一向に動こうとしないアレスを伺うように顔を寄せている。
「アレス。どうした」
「……何だ……これは」
「闇の気配か?」
「違う。……いや、わからない。でも……」
かすかに震える右手をぎゅっと握りしめて、アレスが眼前に聳え立つ神殿を仰ぎ見た。
「体中の血が、ざわめく感じだ」
深く吸い込んだ空気はどこまでも澄みきっていて、アレスを不安にさせる要素などどこにもない。なのに右手の震えは止まらず、今も小刻みに揺れている。
恐れでも、畏れでもない。
何に反応しているのかもわからなければ、警戒すべきなのかもわからずに、アレスはただきつく唇を噛み締めるだけだった。
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