第99話 金色の指輪

 昨夜の騒動が嘘のように、森の中は清浄な朝の光に包まれていた。

 魔犬をはりつけにした木の幹には、アレスが突き立てた剣のあとが深く刻まれている。そこにかすかに残る闇の残滓を指先で掬うと、灰のようにパラパラと崩れて風に攫われていく。力など既にない、闇の燃えかすだ。なのに魔犬の残す闇のにおいは、アレスの胸に小さな不穏の芽を残した。


 ヘルズゲートの闇を強く纏っているというのに、魔犬の力は完全な黒ではない。あの魔犬は、どこかが微妙にずれていた。そしてその闇に狙われているという時間魔法を操る白魔道士リシュレナと、赤き目を持つ謎の男カイル。

 彼の左目、その真紅は魔界に属する者が持つ色だ。魔界跡から溢れ出た魔物が人を襲い、その結果忌み子が生まれることもある。けれどその大半は人の形を留められず、あるいは人の手によって死んでしまうことが大半だ。運良く生き長らえたとしても、人の血よりも魔物の血がわざわいして凶暴化し、魔物と同じく人に害する存在となる。それが魔族、と呼ばれる者たちだ。

 けれどカイルは魔族と呼ぶにはあまりにも。気配を探っても、彼の中に魔物の血らしき邪悪さは感じられない。魔物というより……カイルを見ていると、記憶に深く刻まれた男の姿がよみがえるのだ。


 魔界王ヴァレス。

 魔物を操る魔眼を持つゆえに、神界王バルザックに惨殺された一族。


 カイルがその生き残りなのかどうかを確かめる術はない。重要なのは、彼がなのかということだ。

 今はまだ、二人について考えても答えが出ることはない。唯一わかっているのは、魔界跡で再び闇が動き出しているということ。ならばアレスがやるべきことはひとつだ。魔界跡で蠢く闇を一掃する。


 思案することをやめ、いつの間にか閉じていた瞼を開いた。木の幹から視線を外し、振り返ったその先に踏み潰された草のあとがある。カイルが魔犬に応戦した名残だろう。朝露に混じって、花びらのように血痕が残されている。

 その中に、小さな光が見えた。拾い上げたそれは、朝日を受けてきらりと美しい金色に輝いていた。



 ***



「ない!」


 カロートの町を出て、リシュレナたちは街道から外れた丘の反対側まで歩いてきていた。まばらに生えた木がいい感じに人の目を逸らしてくれている。広さも十分なので、ロアが降り立っても平気な場所だ。

 ここでリシュレナたちはアレスと落ち合うことになっている。けれど到着早々、何やら急に慌てだしたカイルは、アレスを待つことなく一人でロアに飛び乗ったのだ。


「カイル!? どこ行くの!」

「指輪を落とした。探しに行ってくる」

「指輪?」


 今にも飛び立ちそうなカイルを、リシュレナはロアの手綱を引き寄せて止めた。その間もカイルは落ち着かない様子で、しきりに胸の辺りに手を当てている。


「たぶんあの森だ。魔犬と戦った時に落としたんだ」

「間違いないの? 宿に忘れたのかも」

「それはない。あの指輪は俺の一部だ。何があっても肌身離さず持っていたんだ」


 カイルはさっきからずっと、胸の辺りを服ごとぎゅっと握りしめている。おそらく、指輪は首飾りにして常に身に付けていたのだろう。自分の一部というだけあって、カイルの顔は今まで見たこともないくらいに青ざめていた。


「大事なのはわかるけど、アレスが来てからでも……」

「ダメだ。待てない。奴はお前が待ってろ。俺は指輪を探しに行く」

「ちょっと、カイル!」

「すぐ戻る」


 しつこく止めようとするリシュレナの手を手綱から外し、カイルはロアを上昇させた。

 いつもそばにあったものが失われた感覚に心臓が早鐘を打っている。あの指輪はカイルにとって、自身の出生に繋がる唯一の手がかりだ。ロアがカイルを拾った時、既にその小さな手に握りしめていたのだと教えてくれた。

 素人の目から見ても、あの金色の指輪は高価なものだということがわかる。だからカイルは人目につかないよう、鎖に繋いで首から提げていたのだ。それを不覚にも、昨夜魔犬とやり合った時に落としてしまった。


 指輪の確認を怠ることなど、今までに一度もなかった。それほどまでに、アレスの存在に動揺したのだろうか。

 言葉にできない感情が再び頭をもたげて、カイルは苛立ちを振り払うようにロアの手綱をぐっと引き寄せた。その進行方向を塞ぐようにして、カイルの頭上にふっと影が落ちる。


「どこへ行く。朝になったら魔法都市へ向かうと伝えたはずだが」


 見上げた空に、純白の巨体が六枚の翼を広げて羽ばたいていた。その背に乗るアレスを見た瞬間、カイルの顔に不機嫌な色が滲み出る。


「ちょっと急用なんだよ。すぐ戻るから先に行っててくれ」

「悪いがこちらも急ぎだ。魔界跡で何かが動いているのなら、のんびりしている暇はない。アーヴァンへ急ぐぞ」


 命令にも似た口調で告げ、アレスがカイルとロアを横切って降下していく。その隙に勝手に飛び立とうとしたカイルだったが、すれ違いざまにアレスから何か小さなものを投げて寄越された。

 慌てて受け取ったものは、今まさにカイルが探しに行こうとしていた金色の指輪だった。


「おい! これ……っ」

「今朝、あの森で見つけた。普通の指輪にしては少し不思議な魔力が込められているな。お前たちどちらかの物かと思ったが……お前の物で間違いなさそうだな。そんなに大事なら、もう二度となくすなよ」

「言われなくてもわかってるよ!」


 朝日を受けてきらりと光る金色の指輪。手入れなどろくにしていないというのに輝きを失わない指輪は、絡み合う双龍の形を模している。交差する二頭の龍の頭を台座にして青い石がはめ込まれており、まるで蒼穹を押し固めたような清々しい色彩を放っていた。


「……一応、礼は言っとく」


 ぽつりと呟いた声がアレスに届いたかはわからない。けれど一瞬、ふっと笑う気配がした。


「指輪といい、蒼銀色の竜といい、お前は謎だらけだな」


 不思議な魔力を込めた指輪を持ち、人語を話す蒼銀色の竜を共に連れている。イルヴァールと同じくらいに知能があり、かつ会話できる竜をアレスは今までに見たことがなかった。蒼銀色の美しい体をした竜など、普通ではまずあり得ない。言い換えれば、ロアはイルヴァールに限りなく近い竜だ。

 けれどもロアの放つ竜の気配は、アレスが知る飛竜のオーラとはまるで質が違う。竜であって、そうではない。まるで竜にような感じがした。


「悪いけど、アンタに話せることは何もないからな。俺自身が知りたいくらいだ」

「お前が牙を剥かなければそれでいい」

「そりゃどうも」


 アレスに対しては、どうしても突っかかってしまう。いまいち素直になれない自分にわかっていながら、かといって笑顔を向けることもできなくて。

 モヤモヤした気持ちを抱えたまま、カイルは地上で不安げにこちらを見上げるリシュレナの元へロアをゆっくりと降下させていった。



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