第98話 英雄アレス

 深夜の冷たい空気に頬を撫でられ、カイルは焦ったように飛び起きた。何に急かされたのかはわからない。無意識に感じたわずかな異変に、寝起きの心臓がバクバクと早鐘を打っている。

 たいして遮光しない古びたカーテンが、淡い月光を招き入れながら揺れている。寝る前に窓は閉めたはずだ。頭をもたげ始めた不安が顔をのぞかせるよりも前に、忍び込んだ夜風に煽られて部屋の扉がギィ、と鳴く。反射的に見回した部屋の中、リシュレナの姿はどこにもなかった。


「あいつ……まさか」


 一人で旅立ったのかと思ったが、部屋の隅にはまだリシュレナの荷物が魔道士の杖と共に残されている。ぎくりと体が震えた瞬間、カーテンを大きく揺らして吹き込んだ風が窓を強く打ち鳴らした。

 オォーン……と、闇を裂いて魔犬の遠吠えが響き渡る。


『邪魔をするな。魔眼の者よ』


 記憶に残る魔犬の声が、未だカイルの脳を揺さぶった。


「くそっ!」


 後悔と共に舌打ちする。響く遠吠えに絡まるのは魔界跡の闇だ。リシュレナはおそらく魔犬に操られ、連れ去られてしまったのだろう。そう確信したあとのカイルの行動は素早かった。

 窓枠に足をかけ、ここが二階であることも構わずに飛び降りた。難なく地面に着地するや否や、耳をすませて遠吠えの残響をたぐり寄せる。


「北か!」


 わずかに残る気配を頼りに、カイルは街の北に広がる森を目指して駆け出していった。



 ***



 呼ばれていた。誰に、何に呼ばれているのかはわからない。けれどその声を聞いた瞬間、リシュレナは「行かなければ」と焦燥した。

 そこにリシュレナの意思はない。リシュレナはただ闇に木霊する魔犬の遠吠えに導かれるがまま、カロートの町を出て森の奥へ奥へと進んでいく。そうして辿り着いた場所にいたのは、魔界跡でリシュレナを連れ去ろうとしたあの魔犬だった。


『さぁ、来い。リシュレナ。お前が行くべき場所へ連れていってやろう』


 頭の中に魔犬の声が直接響く。まるで考えることを放棄したように、リシュレナの足が魔犬の方へ動いた。


『そうだ。お前は純白を纏う魔道士。この日のために生かされた、あわれな人形だ』


 今のリシュレナは意思も自由も魔犬に奪われている。けれど魔犬の言葉に絶望でもしたかのように、うつろに開かれたすみれ色の瞳からは涙がとめどなくこぼれ落ちていく。

 涙のわけは恐怖か、それとも魔犬の発した言葉なのかはわからない。ただ「人形」という言葉が、意思のない今のリシュレナの心にわずかなさざなみを生んだ。


「レナ! 何やってる、このバカっ!」


 焦った声が追いついたかと思うと、乱暴に体を真後ろに引き寄せられた。その拍子に拘束の魔法が解け、急激な自由を得たリシュレナの体が衝撃に反応できず地面に倒れ込んだ。

 体中に血が巡るのを感じて、そこで初めてリシュレナは自分の指先までもが氷のように冷え切っていることに気がついた。カタカタと小刻みに震える指先ごと手を掴まれ、強引に体を引き上げられる。


「カイ……」

「逃げるぞ!」


 必死に足を動かそうとしても、膝が震えて進めない。一歩すら満足に歩けず、再びぺたりと座り込んでしまったリシュレナに、カイルが苛立ったように舌打ちする。それでも見捨てる選択肢などないように、なおもカイルはリシュレナの腕を掴んで立ち上がらせた。


『二度も邪魔をするか。魔眼の者よ』


 森の木々が怯えたようにざわめいた。風もないのに木の葉がはらりと舞い落ちる。ハッとして飛び退いたその場所に、黒い影が立ちはだかった。魔犬だ。

 間一髪で避けたつもりが、カイルの額には鋭い痛みが走る。幸いにも頭に巻いていた眼帯代わりの布が盾の役割を果たしたが、魔犬の攻撃をすべて防ぐことはできなかったようだ。顔から剥がれ落ちていく布と共に、カイルの左頬に鮮血のあとが伝っていく。


『今度こそ、その喉笛を噛み切ってやろう』


 宣言通りに喉を狙って飛びかかってくる魔犬の牙を剣で弾き返し、カイルは未だ満足に動けないでいるリシュレナの手を引いて森を駆ける。今のリシュレナは完全に戦力外だ。おそらくは拘束の呪文の影響が、まだ体に残っているのだろう。


「ご、ごめ……」

「いいから立て!」


 何度躓いても、カイルは絶対にリシュレナの手を離さない。力強いその腕は、諦めかけたリシュレナの心まで一緒に掬い上げてくれるようだ。


 どうしてこんなにも必死になって助けてくれるのだろう。出会ってから数日。しかも魔界跡の闇に狙われている、どう考えても厄介者でしかないリシュレナを、カイルは決して見捨てない。彼にとっては何の利益もないというのに、だ。


 それに加えて自分はどうだ。悪夢に怯え、無策で飛び込んだ魔界跡で魔犬に襲われた挙げ句、簡単に操られ自力で逃げることもままならない。カイルがいなければ、とっくに魔界跡の深淵へ引きずり込まれていたことだろう。

 せめてこれ以上足手まといにはなるまいと、リシュレナは痺れて痛む両足にぐっと力を込めて立ち上がった。リシュレナを守る必要がなくなれば、防戦一方のカイルが攻撃に転じることができる。

 ――だが、一足遅かった。


『ガアァッ!』


 まるで夜の闇に溶けて移動でもしているのか、さっきまで後方にいたはずの魔犬が真横からリシュレナを狙って飛びかかった。その気配を瞬時に察知し身を翻したカイルの目の前に、けれど魔犬の姿はどこにもない。なのに低い唸り声が、今度は頭上から真っ逆さまに落ちてくる。


「カイ……っ」


 最後まで名を呼べなかったのは、カイルに突き飛ばされたせいだ。尻餅をつき、見上げた視界に、月光すら覆い隠して影を肥大させた魔犬が降下するのが見えた。


「カイルっ!」


 自分を庇って剣を構えるカイルの背に、リシュレナは目を見開いた。無傷で逃げることを諦めたカイルの覚悟が手に取るようにわかる。


 だめだ。そう叫ぶように、リシュレナはカイルの背中を掴もうと必死に腕を伸ばした。

 その指先を掠めて、青銀色の光が一閃した。一直線に闇を切り裂いた閃光は美しい青銀色の軌跡を描いて、カイルに襲いかかろうとしていた魔犬の脳天を貫いた。


 獣の甲高い悲鳴が木霊する。

 真後ろに吹っ飛ばされた魔犬の体は木に激突し、青銀色の剣を楔としてそのまま幹に縫い付けられていた。カイルたちにとって脅威だった魔犬はもはや為す術もなく、逃げようともがく四肢が惨めに空を掴むだけだ。


「お前……」


 呆然と立ち尽くすカイルの目の前には、魔界跡でリシュレナを救ったあの男がいた。ひとつに括った茶色の長い髪も、すべてを達観したような深緑の瞳も、青銀色に輝く剣を振るい敵を屠る圧倒的な力の差も全部鮮明に覚えている。

 けれどあの時とは決定的に違うものがあった。

 男の背には、闇を振り払うかの如く清浄な輝きを纏う純白の翼が広がっていた。


 歴史に刻まれた、はるか昔に滅んだ一族。最後の有翼人として名を刻むのは――。


『私が知る、あのひとの名前は……』


 頭の中で、リシュレナの言葉が木霊する。

 ただの同じ名前だと思っていた。月の厄災から三百年、当時の英雄が生きているわけがないのだ。

 なのに、カイルは本能的に実感する。肌に、心に感じる男の気配が、であることを。


「英雄……アレス」


 震えるくちびるからこぼれ落ちた声に、男――アレスがカイルを一瞥した。無言のまま青銀色の剣を抜き取ると、ごぽりとくぐもった音を立てて魔犬の体が塵となり、さらさらと砂のように崩れ落ちていく。


「やはり影か」


 消えていく魔犬の最後のひとかけらを確かめてから、アレスがようやくカイルの方を振り返った。わずかな異変も見逃さぬようにと、二人を見つめる深緑色の瞳には鋭い光が宿っている。向けられる視線に魔犬とは違う畏怖のようなものを感じて、カイルの背筋がぞくりと震えた。


「それで、お前たちは何者だ? なぜヘルズゲートの闇に狙われている?」


 静かで、それでいて逆らうことを許さない強い声音だ。命令されているわけではないのに、すべてを話してしまいそうになる。

 けれど魔界跡に深く関わっているのはカイルではなくリシュレナの方だ。彼女の事情をカイルがつまびらかにするわけにもいかない。


「隠すと身のためにならない」

「別に隠してなんかいない。ただ……」


 言い淀むカイルの横を通り過ぎて、リシュレナがアレスの前に立ち、ゆっくりと頭を下げた。

 カロートの宿で目覚めた時と同じように、アレスを見つめるリシュレナの表情は少しぼんやりとしている。恍惚といった方が近いかもしれない。歴史の英雄を前に感情が昂ぶっているのか、それとも畏れ多くも思慕の念か。

 どちらにしろアレスを見つめる女の顔をしたリシュレナを見るたびに、名前のわからない苛立ちがカイルの心を掻き乱した。


「私はリシュレナといいます。そして彼は、旅の途中で私を助けてくれたカイルです。英雄アレス様。私、あなたにお伝えしなければいけないことが」

「おい、レナ」


 普段と態度の違うリシュレナに、カイルが思わず声を挟んだ。けれどもその声すら聞こえていないのか、リシュレナの視線はアレスから一向に逸らされることはない。カイルの方をちらとも見ずに、リシュレナはなおも言葉を続ける。


「私は……夢の中で魔界王ヴァレスに呼ばれ、ヘルズゲートへ赴きました」


 ヴァレスの名を耳にした瞬間、アレスの眉がわずかに動いた。


「確証は?」

「夢の中で私を呼ぶ声は、エルティナを求めていました。そのために私をヘルズゲートへ呼んでいたような気がします。それに赤い目も……」


 難しい顔をしていても、リシュレナを見るアレスの目に疑いの眼差しはないようだ。けれども浅慮にすべてを信じ込むこともしない。リシュレナとカイル、その人となりを探るように注意深く観察している。

 その深緑の瞳が自身の左目を注視していることに気がついて、カイルは居心地の悪さからそっと視線をアレスから逸らした。


「時間魔法を操るリシュレナに、赤き魔眼を持つカイル。お前たちから闇の気配はしない」


 改めてそう言われ、カイルはやっと体から力を抜くことができた。アレスの放つ強烈な魔力に、無意識に萎縮していたようだ。


「ヘルズゲートの闇がお前たちを狙う目的は、リシュレナの見る夢に鍵がありそうだな。詳しく話を聞かせてくれ」


 うれしそうに頷くリシュレナを見ていると、カイルの心の中にまたわずかな黒い靄が渦を巻く。何がこんなに苛立つのか本当はもうわかってしまっているのに、それを認める勇気が今のカイルにはなかった。



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