第97話 奇妙な共鳴

 蒼水晶の煌めく、水の中にいた。

 透明な水を揺らして広がる波紋に、白い花が一輪浮いている。それをそっと手に取って、に挿してくれた彼の深緑の瞳が熱を持つ。


『レティシア』


 彼が、呼ぶ。

 いとおしく。せつなく。持て余す感情を吐露するかのように、あまく響く声音に色を乗せて。


 水に濡れた冷たいくちびるが、彼の吐息であたためられていく。触れてみたくて、触れられることを望んで、そっと瞼を閉じる。

 

 吐息すら音を成さない静寂のなか、水面を揺らして落ちる一滴のしずくが、リシュレナの意識を蒼い精霊界の風景から弾き飛ばした。



 ***



 見覚えのある天井だ。どこだったかと思い出そうとして首を横に向けると、ソファーに座っていたカイルと目が合った。


「目が覚めたか」

「ここ……」

「カロートの町だ」


 ゆっくりとベッドから体を起こすと、カイルがグラスに入った水を手渡してくれた。リシュレナが寝ていた部屋は、昨夜泊まったカロートの宿屋だ。堕天使騒ぎのあった夜の記憶がよみがえり、視線を窓の外へ向けると、空は鮮やかな夕焼け色に染まっている。


「お前、倒れたんだよ。覚えてないだろ」

「倒れた……?」


 どこで、と聞こうとして、ハッとする。震えた手からグラスが落ち、鈍い音を立てて床に転がった。

 木の床板を濡らす水に、さっき見た蒼水晶の湖が重なり合う。


『レティシア』


 鼓膜をいまも震わせる声と同じものを、リシュレナは魔界跡で聞いたはずだ。


「カイル!」


 グラスを拾いあげたカイルの腕を掴んで、リシュレナが身を乗り出した。

 心が、体が急いている。魔界跡で見たあの後ろ姿が脳裏を掠めるたびに、リシュレナの胸がわけのわからない痛みに軋んだ。


「あのひとは……」


 魔界跡で魔犬に襲われたリシュレナを助けてくれた長身の男。翻る深緑のマントの上で、ひとつに結ばれた長い茶色の髪が揺れていた。男の剣は不思議な青銀色をしていて、曇り空の広がる魔界跡でも光を失うことがない。まるで青空のように、死んだヘルズゲートに清浄な輝きをもたらしていた。


 知っている。

 あの声も、剣も。

 何度も守ってくれたあの背中も、忘れることのない記憶の一部だ。


「あのひとはどこ?」


 縋るように声を漏らしたリシュレナの瞳に、少しだけ不機嫌に眉を顰めたカイルの姿が映っている。


「あいつはいない。どこかへ行った」

「そんな」

「あいつは誰なんだ? お前は奴を知っているのか?」


 リシュレナのすみれ色の瞳が困惑に揺れる。カイルを見ているようで、どこかここではない遠くを見つめているようだ。

 はじめて出会った時の挑むようなまなざしも、ロアの背中から見る景色に輝かせた瞳もしていない。太陽の下が似合う元気で明るかったリシュレナは、いまや月光の下にひっそりと佇む頼りない一輪の花のようだ。

 誰かが支えてやらねばと思わせるほどに儚く弱い。けれど触れることをためらうような、どこかこの世の者ではない曖昧な雰囲気もした。


「……知っているのは、私じゃないのかもしれない」


 ぽつり、呟いて。

 リシュレナが夢と現実を曖昧に行き来する瞳でカイルを見つめた。


「私が知る、あのひとの名前は……」



 ***



 カロートの町を見下ろす丘の上に古びた木造の教会がある。白く塗られていたはずの壁には苔が生え、窓のガラスはことごとく割れていた。使われなくなってずいぶんと経つのだろう。雑草は荒れた教会の中にまで蔓延っている。

 腐った屋根の上には、未だ威厳を強調する十字架がひとつ。その上に、重さをまるで感じさせずに佇むひとりの男がいる。

 時刻は深夜。夜闇に虫食いの明かりを灯したカロートの町を、男は静かに見下ろしていた。


「アレス」


 名を呼ばれ、顔を上げる。夜の帳が降りた漆黒の闇に侵されない純白が、緩やかに教会の屋根の端に舞い降りた。

 純白の羽毛を持つ、六枚の翼を広げた大きな竜だ。相当な巨体であるというのに、竜が舞い降りた教会は少しも軋む音を立ててはいない。竜も、そして十字架の上に立つ男も、この世の理からは外れているのだろうか。確かにそこに存在しているのに、この世界のどこにも根付いていないような不思議な気配を纏うふたりだ。


「イルヴァール。ここに妙な波動を感じる。アグレアの町で感じたものと同じだ」


 住民全員が眠りに落ちた町、アグレア。人々はそれを呪眠じゅみんとよび、呪われた眠りを連れてくるのは銀色の堕天使だと噂している。

 ここ最近になって呪眠に罹る者が爆発的に増えた。アレスはその原因を探るため神龍イルヴァールと共に各地をまわっていたが、未だ呪眠の解明には至っていない。


 教会の屋根の十字架には、目には見えない闇の残滓が纏わり付いている。アグレアをはじめ、呪眠に落ちた町で感じた波動と同じものであることから、原因は十字架に纏わり付いている闇の残滓に違いない。

 けれども残滓。その大元を辿るには薄く、ただ言葉にできない奇妙な感覚だけがアレスの胸に刻まれていく。


 奇妙といえば、今日ヘルズゲートで出会った若い男女もそうだ。何の用で訪れたかは知らないが、二人を襲った魔犬の存在も気にかかる。それに――。


「魔界跡でも異変が起きている。俺の張った風壁の結界が、深部から闇の力に押されているのがわかるだろう? 一時は完全に飲み込まれた」

「お主の力を上回る闇……か。まさか奴が生きているとでも?」

「否定はできない。確かめようにも、ヘルズゲートの最深部へ降りる道は塞がれているからな」


 その道――最深部へ続く大穴を塞いだのは、三百年前に墜落した天界の残骸だ。物理的に穴を塞ぎ、墜落の衝撃で辺り一帯は強大な魔力が複雑に絡み合う混沌とした地と化していた。

 そののち、不用意に人が立ち入らぬよう、メルドールによって大穴周辺には強力な結界が施された。メルドール亡きあとアレスがその結界を引き継いだのだが、最近になって大穴から噴き出す闇の瘴気の力が増した。ちょうど呪眠が広まり始めた頃だ。


 呪眠と魔界跡の闇の活発化。ヘルズゲートへ降りて内部を確認したいところだが、こうも瘴気があふれ出していては安易にアレスの張った結界を解くわけにもいかない。立ち入り禁止の目的で張った結界が、皮肉にもアレス自身をも弾いてしまっているのだ。


「魔界跡の奥を探ることはできないが、確実に何かが起こり始めている。そしてその中心にいるのは……」

「純白を纏う魔道士と、赤き魔眼を持つ者か」

「女に、何かを感じた」


 無意識に声を落として、アレスは自身の目元を右手で覆う。閉じた瞼の闇に浮かび上がる女の姿、重なり合ったすみれ色の瞳を思い出すと、胸の奥がざわりと揺らいだ。


「過去を呼び戻すような……記憶の奥を掻き乱すような、そんな感覚だ」


 大きく見開かれた女の瞳の奥に、共鳴し合う何かを感じた。初めて会ったはずなのに、アレスは白い法衣を纏う女魔道士を知っているような気がした。


「どちらにしろ、あの二人には話を聞かねばらぬだろう」

「そう、だな。魔犬は魔道士を連れ去ろうとした。何が目的かはわからないが、あの地に関わるものは闇だ。手遅れになる前に、二人には知っていることを話してもらわないと……」


 アレスの言葉を遮るように、遠くから魔犬の遠吠えが夜を切り裂いて響き渡った。声のする方を振り返ったのは一瞬。アレスは弾かれたように身を翻すと、穴の開いた教会の屋根を飛び越えてイルヴァールの背に飛び乗った。


「急げ。北だ!」


 六枚の翼を広げて、イルヴァールが素早く夜空を駈け上がる。飛び去っていく影を追えずに舞った白い羽根が、取り残された十字架を慰めるように触れて、静かに落ちていった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る