第96話 動き出す影
大地を揺るがす咆哮と共に、地上に群がる触手を焼き付くさんとする猛火がロアの口から吐き落とされた。その炎の渦が地上に到達する前に、闇の内側から何か大きな力が膨張するかのように爆発した。
空に向かって吹き飛ぶ触手の軌道上には、幸いにしてロアの炎がある。逃げ場を失った触手はロアの炎によって跡形もなく消し去られ、闇の晴れた地上には無傷で手を振るカイルの姿があった。
「カイル! 良かった……っ」
降下したロアに駆け寄ってくるカイルは、額の布を外していた。カイルの赤い左目――魔眼と呼ばれるその瞳は、魔物を操ることができると言われている。彼があの闇に呑み込まれても無事だったのは、きっと魔眼を使ったからなのだろう。
「今度こそ帰るぞ。いいな?」
そう言って、カイルがロアに飛び乗った。少し性急にも思えたが、あの唐突に膨れ上がる闇を見てしまえばリシュレナも素直に頷くしかない。
風壁はまた白と黒を絡み合わせて、さっきの攻撃などまるでなかったかのように白々しく渦を巻いている。けれど風壁がまた邪悪な黒に覆われないとも限らない。おとなしくなった今のうちに、この場を離れるのが得策だ。
「カイル……あの、ごめんなさい。私がぐずぐずしてたから」
「話は後だ。さっさとここを出るぞ」
カイルの警戒を感じ取って、ロアが手綱を引かれる前に自ら羽ばたいたその時だった。
「ガウァァッ!」
冷気の噴き出す地割れの中から、一匹の魔犬が飛び出したのだ。魔犬は恐るべき跳躍力で難なくロアの頭を飛び越えると、鋭い牙を剥き出しにしてリシュレナたちに襲いかかってきた。突然の攻撃に一瞬の隙を突かれ、リシュレナは魔犬に服を噛み付かれ、勢いそのままにロアの背から引きずり落とされてしまった。
「きゃぁ!」
「レナっ!」
襟首に噛み付いたままリシュレナを引きずっていく魔犬の足止めに、ロアが素早く炎を吐く。その軌道を避けて飛び退いた拍子に、カイルが剣を振り下ろして魔犬からリシュレナを奪い返した。
「退いてろっ!」
リシュレナを自身の背後に庇い、カイルが魔犬を睥睨したまま剣を構えた。
対峙したまま睨み合う互いの目は、どちらも闇に属する真紅だ。けれど身に纏う邪悪な気配は魔犬の方が数倍も上だった。喉から漏れる生臭い息はどこか血臭が感じられ、滴る唾液には猛毒が含まれているかのようだ。
剣を握る手に、じわりと嫌な汗が滲み出る。
「ガルルルッ」
吹き抜ける風が小石を転がす音を合図にして、魔犬がカイルに飛びかかった。喉笛を噛み切ろうとしたその口に剣を押し込んで牽制するも、魔犬とは思えないほどの体の重みに、カイルはそのまま地面に背をついて倒れ込んでしまった。
「カイル!」
「来るなっ!」
重力を味方にして牙をねじ込んでくる魔犬の口から、ボタボタと腐臭のする唾液がこぼれ落ちる。剣が折れれば終わりだ。けれども間近で睨み合うこの状況、魔眼を持つカイルにも形勢逆転のチャンスがある。触手の闇を吹き飛ばした魔眼の力は、同じ魔物の魔犬にも通用するはずだ。
必死に牙を押し止めながら、カイルは魔犬を操ろうと左目の魔眼に集中したはずだった。けれど何度魔眼で見つめても、魔犬がカイルから退くことはなかった。
(なん、だ……コイツは!?)
魔物に効くはずの魔眼が効かない。けれどもこんなにも邪悪な気配を剥き出しにした魔犬が魔物でないはずがないのだ。
白であり黒。生であり死。
まるで真逆の性質を同時に練り上げたような、そんな意味のわからない個体に思えた。
『邪魔をするな。魔眼の者よ』
脳を直接揺さぶる不気味な声に、カイルの体が硬直した。軽い目眩がして、頭に激痛が走る。力の入らなくなった手から剣が弾き飛ばされ、魔犬の牙が唾液にぬらりと光った。
「……っ!」
武器を失い、脳を揺らす激痛に苦悶するカイルを見て、魔犬が口元を歪め笑ったような気がした。
「我が祈りに応え、ネルティスの花に満ちる慈愛のしずくを授けたまえ。聖なる輝きで邪悪なる闇を打ち滅ぼせ!」
高らかに響き渡った呪文にあわせて、リシュレナの持つ杖の水晶がまばゆい光に包まれた。光はいくつかの光球となり、それはカイルを噛み殺そうとした魔犬めがけて弾け飛ぶ。だがそれすらも俊敏に躱してみせた魔犬が、今度は標的をカイルからリシュレナに変えて息つく暇もなく襲いかかってきた。
「きゃっ!」
反射的に振り上げた杖に噛み付かれ、それを遠くに投げ飛ばされる。カイルと同様に武器を失い、リシュレナは魔犬の勢いに押されてその場に倒れ込んでしまった。
伸ばした手に、武器はまだ遠い。それでも必死に手を伸ばして地を這うリシュレナの背後で、魔犬の唸り声とカイルの悲鳴が重なった。
「レナ! 逃げろっ!」
振り返った先で、視界が翳る。
見開いたすみれ色の瞳いっぱいに映るのは、唾液にまみれた牙を剥き出しにして飛びかかる魔犬の姿だった。
――俺の元へ来い、リシュレナ。
『死にたくない』
まるで走馬灯のように、リシュレナの脳裏に銀色の影が揺らめいた。
月の結晶石と共にその身を犠牲にすることを選ばざるを得なかったレティシアの、胸を打つほどに切ない願いがよみがえる。
『アレスと共に、この世界を生きてゆきたい』
レティシアの声は、リシュレナの中から呼び覚まされているような気がした。それと同時に曖昧だったレティシアの姿形が、はっきりとリシュレナの脳裏に刻まれていく。
銀色の長くまっすぐな髪。涙をこぼす青の瞳。胸元で絡めた指先をきゅっと握りしめて、祈るように、願うように月を見上げる。薄桃色の小さな唇が動いて、その名を口にした瞬間――。
過去の幻影から抜け出したかのようにリシュレナの眼前に現れた深緑の影が、目にも止まらぬ速さで魔犬の黒を真っ二つに斬り裂いた。
風に翻る深緑色のマント。
その背で揺れる、ひとつに結ばれた長い茶色の髪。
魔犬を斬り裂いた剣は青銀の不思議な色を纏い、灰色に澱む魔界跡の空気を浄化するように煌めいている。
「……っ」
息を呑んで、リシュレナは眼前に立つ長身の男を凝視した。
体がカタカタと震えている。恐れからではない。畏怖でもない。自分でも処理できない感情があふれ、見開いたすみれ色の瞳から理由もない涙がこぼれ落ちる。
ずっと胸の奥ではまらなかったピースの欠片が、ようやく見つかったような気がした。
「この地に何の用がある」
その声を、リシュレナは誰よりも知っている。
「退け。ここはお前たちの来るような場所ではない」
夢でもなく、幻でもない。
確かな現実の熱を持って、すみれ色の瞳と深緑の瞳が重なり合った瞬間だった。
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