第95話 魔界跡、到着
窓のない部屋。黒に近い紺の壁。磨かれた大理石の床には、大きく緻密な魔法陣が描かれていた。陣を成す呪文は難解で、一目見ただけでそれが高度な魔法だということがわかる。白い文字で描かれた魔法陣は時々淡い光を発しながら、薄暗い室内を曖昧とした明かりで照らしていた。
陣の中央には黒い台座がある。その上に置かれているのは両手で抱えられる大きさの水晶球。時折鈍く光る水晶の中には、星の輝きに似たいくつもの小さなかけらが埋め込まれていた。
「目覚めが近いようじゃの」
いつからそこにいたのか、黒い人影が台座の前に佇んでいた。水晶球にそっと手を置いて、窪んだ目を静かに閉じる。
「
ゆっくりと開いた瞳に、水晶の中のかけらが映る。弱々しく光る、小さなかけら。けれどもそのひとつひとつに秘められた力は強大で、これだけ強固な魔法陣をもってしても完全に抑えきれるものではなかった。
室内に滞る空気は常に緊迫していて、水晶球から滲み出る魔力に少しずつ侵食されつつある。それはこの場に佇む黒い人影も同様であった。そばに寄るだけで、肌にその魔力の鋭い刃を感じる。痛みに歪んだ口元は、けれどすぐに妖しげな笑みへと変わった。
「必要なものはすべて揃った。我らは目覚めを待つばかり」
くつくつと不気味な声を上げて笑う人影が、そのままゆるりと背後を振り返る。いつからそこにいたのか、長身の影が立っていた。
「リシュレナは?」
「カロートの町にて、例の者と遭遇した。明朝にはヘルズゲートへ向かう予定だ」
「同じ運命に惑う者同士が出会うとは、数奇なものじゃな」
水晶の中に収められたかけらたちが、何かに共鳴するかのように光る。その淡い光に照らされて、歪んだ笑みを浮かべる老人の姿が闇にぼんやりと浮かび上がった。
「リシュレナ。ヘルズゲートへ向かうがよい。そこでお前の旅が終わる」
しわがれた声が響くと共に、そこから二つの人影が音もなく消え失せた。後に残った水晶球は、変わらず悲しい光を纏っているだけだった。
***
銀色の堕天使が出現した翌朝。ぴりぴりと緊張したカロートの町を、カイルとリシュレナは無言で出発した。ロアに乗って飛び立った空はいやというほど晴れ渡っているというのに、リシュレナの心はいつまでたっても昨日の夜のままだ。
昨夜目にした銀色の堕天使は、それが誰であるかを特定するには難しかった。窓の外を通り過ぎたのはほんの一瞬。風のように去っていった影に、リシュレナが確信を持てたものなどひとつもない。夢に見るレティシアの姿は曖昧で、銀色の堕天使と彼女が同一人物であると言う確かな証拠は何もなかった。
ただ、銀髪であったこと以外は。
「おいっ!」
真後ろから怒鳴られて、リシュレナはびくんと体を震わせた。振り返ればカイルが不機嫌そうに眉間に皺を寄せている。
「な、なに?」
「お前、全然聞いてなかっただろ。……ったく、昨夜から魂の抜けたような顔しやがって」
「……ごめん」
「前を見ろ。あの空が見えるか」
手綱を左手だけに持ち直して、カイルが遠く空の向こうを指差した。地平線の先、どこまでも晴れているはずの空が、そこだけ灰色の曇天に覆われている。
「もうすぐ魔界跡ヘルズゲートだ。昨夜のことを引きずってる暇なんかないぞ。気合い入れとけ」
「カイルは……気にならないの? あの堕天使が誰なのか」
「知ったところで俺には関係ない」
確かにカイルにとってはそうなのだろう。カイルだけではない。きっとこの世界のほとんどの人が、そう答えるはずだ。
おかしいのはリシュレナの方だ。なぜこんなにもレティシアに、月の厄災や月下大戦の過去が気になるのだろうか。ただ月の厄災の夢を見るだけで、その身に直接経験したわけでもないのに。
「ただ、お前は少し……他人の過去に引きずられているような気がする」
「そう、ね。それは自分でも……何となくわかる」
「もう少し、自分をしっかりもっていた方がいい。流されやすいと、いつか自分を見失うぞ」
「……うん。ありがとう、カイル」
「それでもお前が迷うようなら、その時は俺が愛称で呼んでやるよ。レナって呼んでほしくてピーピー泣いてたからな」
「泣いてないわよっ! もうっ、蒸し返さないでってば」
わざと空気を明るく変えてくれたカイルに、心を押し潰していた重石のような気分が一瞬で軽くなる。やっぱりカイルは優しいひとだ。
「準備はいいか?」
確認され、リシュレナは深呼吸する。
目前に迫るは、魔界跡ヘルズゲート。緑の途切れた地平線の先に、白と黒の入り混じった巨大な風壁が、曇天を穿つように渦を巻いていた。
***
その光景に息を呑んで立ち尽くした。
生命を育めない大地は罅割れて死に、枯れた色をどこまでも引きずっている。鼻腔を突いて体内を巡る冷たい空気は呪いという毒を孕み、呼吸しただけで魂を奪い取られるような気がした。地に付いた足の裏からでさえ命の熱が引きずり出されそうだ。
体が無意識に震えている。吹き荒ぶのはただの風なのに、それが何万という叫び声に聞こえてしまって、リシュレナは思わず両耳を強く塞いだ。
三百年経った今でも、この地に残る悲しみは癒えない。癒えることがない。大地に、風に、太陽を覆い隠した空にまで深い怨嗟と絶望が染み渡っている。
「平気か?」
声をかけられたことで、リシュレナは自分が呼吸を忘れていたことに気付く。大穴を塞ぐ風壁はまだ遠く、ここは魔界跡の入口に過ぎないのに、張り詰める空気は重く凍えるほどに冷たかった。
「ごめん。ちょっと圧倒されてた」
「これくらいでビビるなよ。向こうはもっと強い魔力がせめぎ合ってるからな」
「うん、平気」
「近くまでは行かない。あの罅割れがある場所まで行ったら、引き返すからな」
カイルが目印にしたのは、地面を分断するように走る大きな地割れのあとだ。地底からは冷気が噴き出しているのか、その周辺だけは地面が白く凍り付いている。近付くほどに、周囲の温度がぐんと下がった。
「これが……魔界跡、ヘルズゲート」
月の厄災で崩落した天界の遺跡は、おそらくあの風壁の中なのだろう。辺りは一面枯れた大地が広がるばかりで、建造物らしきものは何も見当たらない。ただ風壁を中心にして、恐ろしいほどの魔力が渦を巻いていることがわかった。
「何も……ないわ」
魔界跡に来れば、何かしら動きがあると思った。それほどまでに悪夢は生々しく、声は執拗にリシュレナを魔界跡へ呼んでいたから。
けれど目の前に広がるのは死んだ大地ばかりで、どれだけ待ってもリシュレナを悩ませた悪夢の元凶が姿を現すことはなかった。
「やっぱり……ただの夢、だったの?」
「何も起こらないなら、それでいいじゃねーか」
「……呆れてる? 悪夢に怯えて、こんなところまで来た馬鹿な女だって……」
「それでお前が安心できるなら、別にいいんじゃねぇの?」
「うん。……そう、ね」
閉ざされた風壁の奥に未練がないわけではなかったが、あの渦を巻く魔力の塊に今のリシュレナでは歯が立たないことも肌で感じる。
ここでリシュレナができることは何もなかった。
「気が済んだなら、さっさと帰るぞ。こんなところ長居してもいいことないからな」
後ろで待機しているロアを呼んで、カイルが早々に帰り支度を始めた。
「待って、カイル。あと少しだけ……」
「ダメだ。さっさとロアに乗れ」
カイルの口調がさっきより固くなっている。見れば少し緊張しているのか、表情も強張っているようだ。
「カイル?」
「風が変わった。嫌な予感がする」
キリキリと、まるで空気がねじ切られているような音がした。それは音として響かず、鼓膜を
ハッと顔を上げた視線の先で、白と黒の絡まり合う巨大な風壁の色が一瞬だけ漆黒に塗り潰されていく。ロアを傷つけた、あの日と同じ光景だ。
「ロアっ! 行け!」
カイルが強く叫んだのを合図にして、ロアが中途半端にしがみ付いたリシュレナごと空に舞い上がった。間を置かず、漆黒に染まった風壁が熟れた果実のように膨れ上がり、そこからいくつもの触手が四方八方へと弾き飛ばされた。
それはある程度の距離を保っていたカイルの場所まで飛び散って、上空に逃げたリシュレナたち以外すべてを漆黒の闇へと引きずり込んでいく。
「カイルっ!」
姿を探そうにも、眼下は闇で埋め尽くされている。かろうじてカイルがいた場所に見当を付けたものの、そこでは闇の触手が獲物を屠っているかのようにおぞましく蠢いているだけだ。
「ロア! カイルを助けないとっ」
「わかっている」
ぐるりと空を旋回して、ロアがカイルのいた場所めがけて降下する。口を大きく開けて吐き出されるのは、魔物を絶対的に排除する聖なる炎。邪悪を焼き尽くす猛火を吐いて、魔界跡の空に猛々しい咆哮が響き渡った。
***
辺り一面、闇に包まれている。
命を寄越せと、我先に襲いかかる触手を剣で薙ぎ払い、カイルは自身の頭に巻いた布に手をかけた。
数は多いが、相手は魔物。魔物ならば、カイルの力が通用する。
「来るなら来い。一瞬で消してやる」
はらりと
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