第94話 銀色の堕天使

 カロートは、街道同士が重なり合う場所にある大きな宿場町だ。旅人や商人が多く訪れるこの街の夜は遅くまで明かりが灯り、酒場に至っては日をまたいでも賑やかなことが多い。

 今夜もちょうどそんな日で、深夜近くになろうとしているのに酒場にはまだ酒を飲んでいる男たちの姿があった。


「今夜一晩泊まりたい。部屋は空いてるか?」


 カウンター越しにそう訊ねたのはカイルだ。ずいぶん遅れてから、リシュレナが酒場の扉を開けて入ってくる。


「一部屋なら空いてるよ」

「十分だ」


 リシュレナがカウンターに着く頃には、もうカイルは部屋の鍵を受け取ったあとだった。カイルの手に握られた鍵を見て、ホッとしたように破顔する。


「良かった。部屋、空いてたのね」

「二階の左奥から三番目の部屋だ。両隣の部屋の奴らはもう寝てるから静かにな」

「わかった。……ちょっと聞きたいことがあるんだが」


 カウンターに少し身を乗り出して声を落としたカイルに、マスターの男が訝しげに眉を寄せた。


「ここに来る途中、小さな町に立ち寄った。泊めてもらおうかと思ったんだが……住民みんなが死んだように眠っていた。町の名はアグレア。知ってるか?」


 ぴたりと、グラスを拭くマスターの手が止まる。それどころか酒を飲んでいた男たちも、町の名を耳にした途端申し合わせたようにしんと静まり返った。


「アグレアか……。もちろん知っている。悪魔に魅入られた町だ」

「悪魔?」

「数週間前までは、まだ何人か残っていたはずなんだが……そうか、みんな眠ってしまったのか」

「どういうことだ?」

呪眠じゅみんだよ。呪われた眠りに落ちたんだ。もう二度と目覚めない」


 カイルの疑問に答えたのは、近くの席に座る商人の男だ。


「皆あいつに連れていかれた。アグレアも、ウェインもミュゼも、悪魔に魅入られたのさ」

「あいつとか悪魔とか……一体誰のこと? 本当にいるの?」


 リシュレナの問いには誰も答えない。答えることが恐ろしいのか、酒場の空気は一瞬にして重苦しいものに変わる。

 しばらくの沈黙の後、口火を切ったのは酒場のマスターだった。


「数ヶ月前、ミュゼの村に住んでいた青年が、原因不明の深い眠りに落ちてしまった。どんなに手を尽くしても男は目覚めることなく昏々と眠り続け、数日が経った頃には同じ眠りに落ちた者が他の町や村にも現れ始めた。ある者は病だと言う。ある者は呪いだと言う。時には複数の人間が同時に眠ってしまうこともあった。そうして気付いた時には、全員が眠りに落ちてしまっているんだ」


 そこで一旦言葉を切って、男がゆっくりと息を吸う。まるで続きを口にするのを恐れているかのようだ。


「眠りをもたらす者は、人であって人ではないのかもしれない」

「正体を知っているのか?」

「あれを、人と呼ぶのなら。あれは人を眠りに誘う前に、一度だけ姿を現す。私があれを見たのは、妻が呪眠にかかった夜のことだった」


 窓から射し込む細い月光。静かな寝室。少しだけ開いた窓。風に揺れる白いカーテン。弱い月光を浴びて佇むのは、銀色の……。


「幻のように美しかった。あれが夢か現か、今でもわからない。ただ覚えているのは、月光のように輝く長い銀髪だけだ」


 リシュレナの胸がどくんと鳴った。一気に口内が干乾びる。


 ――その色は、特別だ。

 世界で最も美しい種族だと謳われながら、滅びの一途を辿ってしまった一族。その王族にだけ許された、高貴なる色彩。


「天界ラスティーンの……」


 無意識のうちに唇を割ってこぼれたリシュレナの言葉に、マスターの男が肯定の意を示して頷いた。


「天界ラスティーンは三百年前に崩落した。彼らの魂が、未だ成仏できずにさまよっているとも言われている」

「そんな」

「だから、こう呼ばれているんだ。――銀色の堕天使、と」


 ごうっと、一層強く風が鳴いた。



 ***



 星さえも眠る深夜。

 明かりの消えた市場通りを見下ろす小高い丘の上に、古びた教会があった。木造の屋根に堂々と胸を張る、風化した十字架。その上に、夜より深い漆黒の闇が立っていた。

 虫食いのように明かりを灯すカロートの町を、闇は微動だにせずじっと見下ろしている。それだけで、辺りは不吉な空気に満たされていった。


 闇が動く。動いて、翼を広げるかのごとく両の腕を左右に開く。そして、十字架の上から真っ逆さま落下した。


 不吉な風が闇の後を追って、カロートの町に絶望の嘆きを木霊する。風に乗って流れた一枚の羽根は、闇に侵食され、溶けるように消滅した。



 ***



「ちょっと。どうして一部屋しか借りなかったのよ!」

「一部屋あれば十分だろ」


 部屋の扉を開けた途端、目に飛び込んできたのはひとつのベッドだ。入口で固まるリシュレナとは反対に、カイルはさっさと荷物を降ろして靴を脱ぎ始めている。


「十分じゃないから言ってるの!」

「ああ、俺はソファーでいい。ベッドはお前が使え」

「そういうことじゃなくて」


 あっという間にソファーに寝転んだカイルから、かすかに笑う声がした。


「余計な心配はするな。俺にだって好みはある」

「なっ、何よ! 私だってカイルなんか好みじゃないものっ!」

「何ムキになってんだよ」

「なってない! もう寝るっ。おやすみなさい!」


 ぷいっと顔を背けて怒鳴り返すと、リシュレナはわざと足音をドンドンッと響かせてベッドに潜り込んだ。

 昨夜も一緒に寝たことは寝た。けれど野外でロアも一緒だった昨日とはわけが違う。ここは謂わば密室で、カイルは男で、同じ部屋で。そうあれこれ考え始めると余計に意識しそうだったので、リシュレナは気持ちを切り替えようと別のことを考えることにした。


 けれども、それが余計だった。

 酒場のマスターから聞いた、銀色の堕天使の話を思い出してしまったのだ。


『彼らの魂が成仏できずに、未ださまよっていると……』


 人々を死の眠りへといざなう、銀色の堕天使。滅んでしまった一族が生み出した、悲しき亡霊。


『幻のように美しかった。覚えているのは、長い銀髪だけ』

『悪魔に魅入られたのさ』


 ――違う。

 リシュレナは唇をきつく噛み締めた。


 銀色を纏う佳人は、世界を救った。命をかけて、すべてを愛した。その彼女が、堕天使などと呼ばれるはずがない。呼ばれていいいはずがない。


 幼い頃から幾度となく見ていた夢の中で、彼女は自分に科せられた運命に躓きながらも必死に立ち向かっていた。命をかけることを恐れ、嘆き、それでも最後は愛するものすべてを守るために、月の結晶石と運命を共にしたのだ。


 儚くも強い銀の姫、それがレティシアだ。世界を救った英雄の一人として称えられ崇められるはずの彼女が、今では死を招く悪魔として人々から恐れられている。リシュレナはレティシアが汚されたような気がして悔しかった。悔しくて、けれど自分では何もできなくて、その歯痒さゆえに涙までもが滲み出る。


 睫毛を濡らす涙をグイッと拭い去って、リシュレナは必死に意識を手放そうとした。少しでも眠らなければ、体が持たない。カイルがそばにいることが無意識の安心材料になっていたのか、悪夢を見るかもと恐れる気持ちはいつもより少しだけ和らいでいた。


「銀色の堕天使が出たぞっ!」


 突然響いた男の声に、リシュレナは弾かれたように飛び起きた。束の間だか眠っていたらしい。すぐには立ち上がれなくて一瞬ふらついた。


 男の声に重なるようにして、いくつかの声が聞こえてくる。窓の外からだ。複数人の声は、だんだんとリシュレナたちが泊まる宿の方へ近付いていた。

 心臓が口から飛び出してしまいそうなほどに早鐘を打っている。やっとの思いで立ち上がり、リシュレナは窓を覆うカーテンを握りしめた。その手がおかしいくらいに震えている。


「やめろ」


 低く響いた声に振り返ると、ソファーに身を起こしたカイルがリシュレナをじっと見つめていた。まるでカーテンを開けようとしたリシュレナを咎めるかのような目だ。


「何が起こるか分からない。下手に動くな」

「でも」

「窓から離れろ」


 強い口調で命令されても、リシュレナは窓際から動こうとはしなかった。握ったカーテンが小刻みに揺れている。その間も、窓の外の声は近付いている。


「聞いてんのかよ」

「確かめるだけ」

「確かめるって、何を」


 カイルの言葉を遮って、窓の外で男の太い声が響き渡った。


「屋根に逃げるぞ! 宿屋の上だ!」


 ほとんど反射的に、リシュレナがカーテンを勢いよく開け放った。窓の外では、闇を照らすランプの灯りがちらちらと揺れている。


「おいっ!」


 怒鳴ったカイルが、リシュレナの腕を掴んで窓際から強引に引き戻した。その場所、リシュレナが立っていた窓際の月明かりが突然ふっと翳る。

 窓の外。細い月光を遮って流れるのは、美しい銀色の――。


「銀色の堕天使!」


 カイルの声に反応したかのように、影がゆっくりと室内の二人へ振り返る。目と目が合うその一瞬より早く、銀色の堕天使は夜の闇に紛れて消えていった。



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