第11章 闇の胎動

第93話 アグレアの町

 風が泣いている。犯してしまった罪を悔いるように、嘆いている。


 人の気配のまるでない寂れた路地。明かりを灯さない家。開け放されたままの扉。誰もいない表通りに散る枯葉が、風の嘆きにカサカサと乾いた音を立てて転がっていく。

 聞こえるのは風の慟哭と、それに同調して舞う枯葉の円舞曲ワルツ。そして開いたままの窓から翻るカーテンの音が、小さな町に無気味な旋律を響かせていた。


 死んだように静寂を守る町。入口に立てられた木の看板には、太くはっきりとした線で『アグレア』と町の名が彫られていた。


 夕日に染まる路地裏に、黒い人影が細く伸びている。その影の先には、ひとりの子供が倒れていた。

 歩くたびにカシャンと小さな音を立てるのは、影が身に付けている青銀色の長剣だ。柄に軽く手をやり、いつでも抜けるよう警戒しながら、影は地面に倒れたままの子供のそばへと膝をついた。死んでいるかに見えた子供だが、静かに上下する胸部が少年の命に有無を物語っている。

 少年は死んでなどいない。異常なほど深い眠りを、延々と貪っているのだ。


「ここもか」


 呟かれた声音は男のものだった。溜息をひとつこぼして、男は少年の体を抱き上げると一番近い民家へと入っていった。

 家の中も他と変わらず静まり返っている。室内に置かれた二人掛けの小さなテーブル。その奥にあるクリーム色のソファーには、痩せ細った老婆が横になっている。編み物の途中だったのか、足元には赤い毛糸が糸を絡ませて転がっていた。

 男は少年を空いたベッドに寝かせてから、ソファーで眠る老婆を観察するようにじっと見つめた。老婆もまた、死んだように眠っているだけだった。


「……」


 緩く首を横に振って、男はくるりと踵を返す。羽織っていた暗緑色のマントが、ばさりと音を立てて風に大きく翻った。

 夕日色に照らされた、静かな路地裏。一瞬だけ翳ったその場所に、男の姿はもうどこにもなかった。



***



 吸い込まれそうな青空を、巨大な影が横切っていく。大きな翼を広げ悠然と空を飛ぶその姿に、大人たちは畏怖の念を抱き、子供たちは羨望の眼差しを向けていた。


「この前はベインの町が襲われたそうよ」

「レーテの村では魔物から村人を守ったって言うじゃないか。一体どっちが本当の姿なんだろうね」

「どう見られようと関係ないんじゃないの? ああいう輩はお金さえ手に入ればいいのよ」


 そう囁き合う大人たちとは裏腹にに、子供たちは空を指差し、竜の影を追って走っていく。


「オレ、ずっと前に竜の兄ちゃんに助けてもらったことがあるんだ。すっげーかっこよかったんだぜ!」

「いいなぁ! あたし、あの竜に乗ってみたい」

「だめだめ。兄ちゃん、誰も乗せないって言ってたもん」


 子供たちの追跡は丘の上で終わり、名残惜しそうに手を振る姿が見える。去りゆく影は意図的なのかそうでないのか上空で一度だけぐるりと旋回し、そしてそのまま青い空の遥か遠くへと飛び去っていった。


「ねぇ。さっき子供たちがすごく嬉しそうに手を振ってたけど、知り合いなの?」


 眼下に広がる景色を眺めていたリシュレナは、自分たちの乗っているロアの後を追いながらしきりに手を振る子供たちを発見して、不思議そうに背後のカイルを振り返った。


「魔物に喰われかけてた」

「喰われ……? だ、大丈夫だったの?」

「だからあそこにいる」


 竜の存在は人々にとって神秘の象徴だ。滅多に姿を現さない竜に子供たちが歓声を上げるのは想像の範囲内だったが、まさかカイルが人助けまでしていようとは正直思ってもみなかった。

 確かに悪い人ではないとは思う。けれど率先して人助けするようなタイプにも見えない。というか、あまり目立つのが好きではない気がする。


「カイルって、人助けもするのね」

「どういう意味だ、おい」

「言葉通りの意味よ」

「確かに、普段は人を襲う方が多いしな」

「お、襲うって……」

「お前の想像できる盗賊を思い浮かべろ。たいして違わない」


 ぎょっとしてまたも振り返ったリシュレナの視界に、してやったりとほくそ笑むカイルの姿が映る。


「一緒にいるのが怖いんなら、ここでお前を降ろしても構わない。俺だって好きでお前を乗せてるわけじゃないんだしな。さて、どうする?」


 盗賊という言葉に怯え、同行を拒否すればカイルにとっては願ったり叶ったりだ。その目論見を悟って、リシュレナは挑むように頬を膨らませて頭を振る。


「いやよ」

「……は?」

「だから、嫌って言ったの。カイルには悪いけど、私そんな言葉で騙されたりしないから」

「チッ」

「それに、私はあなたが優しいこと、ちゃんと分かってるもの」

「……んだよ、それ」


 自分の誤解で怪我をさせてしまったリシュレナへ、手当の薬を渡してくれたこと。出会ったばかりなのに、リシュレナの願いを聞いて魔界跡へ向かってくれていること。言葉も態度も乱暴なところはあるけれど、カイルはきっと優しいひとだ。

 地平線の向こうに消えた子供たちだって、きっとそれがわかっているから、あんなにも楽しそうに手を振ってきたのだろう。


 そう思って微笑むと、風に靡くカイルの金髪が、わずかに赤くなった耳朶を惜しげもなく曝していた。


「っとに……何でこんなことしてんだろうな、俺」

「今更だけど、巻き込んじゃってごめんなさい」


 昨夜、夢のことを正直に話したあと、カイルとロアは渋々ながらリシュレナを魔界跡まで連れて行ってくれることを約束した。もちろん大穴の近くではなく、本当に入口の端っこの方までだ。それでも魔界跡までの距離を一気に短縮できたのは、リシュレナにとってはありがたいことだった。カイルたちにしてみれば、断腸の思いであることは理解できていても、だ。


「正直、できれば関わりたくない。魔界王らしき男に呼ばれて魔界跡へ行こうとしている女なんて、普通なら問答無用で追っ払ってる。でも……お前はロアの恩人だ」


 魔法都市から出たことのない女が、たった夢見が悪いだけで世界一危険な場所へ行こうとしている。最初話を聞いた時は正直馬鹿かと思ったが、夢を語るリシュレナの体がわずかに震えていることをカイルは見逃さなかった。

 思い出すだけでも恐ろしい悪夢であるというのに、その意味を確かめに自ら魔界跡へ旅立つ決意をしたリシュレナ。決意だけは強いのに、その方法がどうにも危なっかしい。

 そんなリシュレナを見ていると、カイルはなぜだか助けてやろうかと、自分らしくない感情に気付かされるのだった。


「……冗談じゃない」

「え? 何か言った?」

「別に。……魔界跡に、何もなければいいな」


 リシュレナに、というよりは自分に対して、カイルは祈るような気持ちで呟いた。



 途中何度か休憩を挟みながら、魔界跡へと向かっていく。太陽が西に傾いて空がオレンジ色に染まる頃、カイルは進行方向を街道から外して、ロアをゆっくりと下降させた。


「今夜はあの町で宿を取る」


 カイルが指差した方角に、小さな町の入口が見える。歩いていけない距離ではないし、日の傾きからして夜が来る前には町に辿り着けるだろう。

 先に飛び降りたカイルが、リシュレナに手を伸ばしてロアから降りるのを手伝ってやる。体に結び付けていた荷物をほどくと、ロアはそのまま夕闇迫る夜空へとひとりで駈け上がってしまった。


「えっ! ロア? ねぇ、ちょっとカイル。ロアが……」

「ロアが町に入れると思うか? あいつなら大丈夫だ。自分の寝床くらい自分で見つけられる。俺たちも行くぞ」


 そう言ってさっさと歩き出したカイルに置いて行かれまいと、リシュレナも自分の荷物を持って駆け足で後を追いかけていった。




 辺りが完全に闇に包まれる前に、リシュレナたちは目指していた町の入口まで辿り着いた。太陽はすっかり沈んで、後は夜が来るだけだ。暗い道を歩かずに済んだと安堵したのも束の間、町に漂う異様な雰囲気に気付いてリシュレナは足を止めた。どうやらカイルも同じようで、腰に差した剣をいつでも抜けるように身構えている。


 辺りは既に夜の闇に包まれつつある。それなのに、町のどこにも灯りがついていない。


「静かね」


 沈みゆく闇を揺らす風の音。風に揺られて開閉する扉の悲鳴が、不気味なほど細い音を立てて町全体に響いていく。


「明かり、つけていい?」


 カイルが無言で頷いたので、リシュレナは杖の水晶に明かりを灯した。何が起こっているのかはわからないが、一応警戒の意味も込めて、光は自分たちの周囲を淡く照らすだけの弱さにした。

 リシュレナの灯した水晶の光に照らされて、町の入口に立てられた看板の文字がうっすらと浮かび上がる。そこには「アグレア」と、町の名が記されていた。


「お前、魔法で戦えるか?」

「攻撃の呪文なら知ってる。実戦で使ったことはあんまりないけど」

「ああ、あれか」


 昨夜の魔法を思い出して、カイルが苦々しげに呟いた。魔法はカイル自身が中断したので、その威力がどれほどなのかは実際のところよくわからない。


「お得意の時間魔法は?」

「四賢者たちの許可がないと、実は使っちゃいけないの」

「……お前、昨日ロアに使ってたよな?」

「内緒にしといて」

「不良魔道士」

「何ですって!」


 規約違反してまでロアを治してやったのに、その言い草はないだろう、と。そう思ったが、カイルも本気で言ったわけではないことがわかるので、リシュレナも反論は一応小声に留めた。


「とりあえず防御結界くらいは張っとけ」


 自身の剣を鞘から抜いて、カイルは前方の暗闇を注意深く進んでいく。その後ろを遅れないように歩きながら、リシュレナは一呼吸のうちに自分とカイル二人分の防御結界を張った。


「誰もいないのかしら」


 住民が魔物に襲われたのだとしたら、町のどこかに破壊された家屋や血痕が残されているはずだ。しかしどれだけ注意深く辺りを探っても、それらしいものは何ひとつない。風に運ばれる匂いに獣臭もなく、町を覆う闇には魔物の気配すら感じない。完全なる静寂だけが町を包み込んでいた。


「おい、何か感じるか?」

「何かって?」

「俺が感じ取れるのは魔物と野獣の気配くらいだ。魔法についてはよく分からないからな」


 カイルの言葉の意味を理解して、リシュレナが頷いた。立ち止まって目を閉じ、意識を一点に集中させる。深く吸い込んだ息をゆっくりと吐きながら、リシュレナは脳裏に浮かぶ淡い光の集中点へと目を凝らした。その奥に垣間見えたものは、白と黒の大きな波のうねりにも似た巨大な魔力の影だった。


「何か……大きな力が働いているのは感じるけど」


 うわ言のように声を落として、リシュレナがゆっくりと目を開けた。たった一瞬のことなのに、すみれ色の瞳にはかすかな疲労の色が揺らめいている。


「魔法か。何のために……」


 何かを考えながら辺りを歩き回るカイルに、リシュレナは後を追うのに必死だ。少しは歩幅の違いを考えてもらいたいと愚痴りそうになったところで、不意にカイルが足を止めた。あまりに急だったので、リシュレナはカイルの背中に顔面からぶつかってしまった。


「ちょっと、カイル! 何……」

「レナ……見ろ」


 愛称を呼ばれたことなど忘れるほどの光景が、リシュレナの眼前に広がっていた。


「何だ、これは……」


 リシュレナの持つ杖の淡い光に照らされて、通りの向こう、小さな広場となっているその場所に多くの人間が捨て置かれた人形のように倒れていた。


「一体……」


 続く言葉を飲み込んで、カイルが倒れている男のそばに近付いた。リシュレナも灯りを絶やさないようカイルの後に続くものの、この異様な光景にさっきから背筋がゾクゾクと震えっぱなしだ。

 大人も子供も老人も、みんながみんな倒れたままぴくりとも動かない。おそらくはこの村の住人たちなのだろう。数人目の住人を観察していたカイルが、ようやく顔を上げてリシュレナの方を振り返った。何か確信を得ているのに、どうにもはっきりしない表情だ。


「カイル。皆は、もしかして……」

「いや、死んではいない。ただ……」


 灯りの消えた町。魔物の気配も何もない町に唯一残るのは強大な魔力の残り香と、死を予感させる深い静寂。


「ただ、眠ってるだけだ。それも死んだように」


 静寂の町、アグレア。

 そこにある人々は決して覚めることのない深い眠りに捕われて、永久に続く偽りの夢へといざなわれていた。


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