第92話 無謀な願い
カイルのくれた薬はよく効いた。しばらく布を当てていただけで痛みは完全にひき、指先で触れてみても傷跡がどこかわからないくらいだ。
「カイル、ありがとう。この布、あとで洗って返すから」
「別にいい」
横から伸びた手に布を奪われ、代わりにリンゴをひとつ渡される。
「え?」
「晩飯にでも食ってろ」
そう言って、カイルが自分用のリンゴに齧り付いた。見れば後ろの方でロアもリンゴを食べている。あの巨体でリンゴ一個はさすがに足りないのではないかと思ったが、その少ない食料をリシュレナに渡してくれたカイルの気持ちに、またふわりと心があたたかくなるのを感じた。
「それなら私も少し持ってるから、良かったら半分こ……さんぶんこしない?」
「何だよ、さんぶんこって」
「仲直りのしるしに」
麓の村で買ったパンを三等分にして、カイルとロア、三人で食べる。たったそれだけのことなのに、リシュレナは何だかとても満たされた気分になってしまった。
思えば魔法都市を出てからここまで、ずっと心が張り詰めていたように思う。慣れない旅に加えて、夜は夢にうなされてろくに眠れもしない。旅先で会ったのは幸いにも優しい人ばかりだったが、それはリシュレナが純白の法衣を着ていたことも関係しているのだろう。
時間魔法のことを知らない人たちでも、魔道士の着る法衣に皆特別な思い入れがあるのだ。
世界を救った英雄たちと共に戦った最強の白魔道士メルドール。魔道士の育成や魔界跡に張った結界、そして月の厄災時に世界にこぼれ落ちた魔物討伐など、彼が後の世に残した功績は大きい。
月の厄災後に姿を見せなくなった竜使いアレスと獣王ロッドに比べると、より身近な存在として人々の心に残っていったのだ。その結果、メルドールと同じ魔道士たちに、人々は今でも尊敬と感謝の念を抱いている。もちろんリシュレナをはじめ他の魔道士たちもその思いを無下にしないよう、常日頃から自身の立ち振る舞いには気をつけている。
「そういやお前、名は?」
「私はリシュレナ。みんなはレナって呼ぶわ」
「俺にもそう呼べと? 会ったばかりの男に愛称まで催促するとは、相当変わってんな、お前」
「そ、そういう意味で言ったんじゃないわ!」
「ふぅん?」
「アーヴァンではみんなそう呼ぶからつい言っちゃっただけよ! 別に久しぶりに呼んでもらいたいとかそういうんじゃないんだから!」
「全部口に出てるぞ」
「うっ」
本人でさえ意識していなかった無意識の願望を言い当てられ、リシュレナは恥ずかしさに耐えきれず、抱えた膝に顔を埋めてしまった。
「お前、魔法都市から出たことのない箱入りだろ。今までは魔道士という立場に救われていたかもしれないが、これから先もそうとは限らない。少しは他人を警戒しろ。でないといつか痛い目を見るぞ。……まぁ、俺も傷つけちまったけどな」
「カイルは悪くないわ。ロアを守ろうとしたんでしょう? そりゃ、ちょっと怖かったけど、でも本当はいい人だってわかるもの」
「そういうところだよ」
褒めたつもりなのに、飽きられたように溜息をつかれる。ほんのちょっとだけむっとして顔を上げると、カイルの赤と目が合った。
「俺は男で、しかもこんな目をしてるんだぞ」
「魔眼のこと?」
「それもあるが……こんな山の中で得体の知れない男と二人きりとか……普通怖がるだろ」
「ロアもいるじゃない」
「それはそうだが……あぁ、くそっ。調子狂うな」
苛立たしげに、カイルが自分の頭を掻きむしる。かと思えば脇に置いてあった荷物の中から新しい布を取り出して、赤い左目を隠すように再び頭にそれを巻き付けてしまった。
リシュレナはもう、カイルの魔眼を怖いとは思っていない。だからだろうか。再び隠されてしまった左目を見ていると、何だか距離を置かれたような気がして胸の奥が少しだけ痛んだ。
「カイルは……魔族、なの?」
「どうだろうな。俺は他人に語れるほど、自分のことを知らない」
「ロアに育てられたって……」
「そうだ。物心着いた頃から、ロアがずっとそばにいた。親であり兄弟であり、大切な友人だ。……だから、ロアの傷を治してくれたお前には、本当に感謝している」
今度はちゃんと、目を見て感謝を伝えられる。向けられる青い右目にはロアに対する深い愛情がありありと滲み出ていて、そんなカイルが悪い人であるはずがないのだとリシュレナは改めて思った。
「ところでお前、こんなところで何してる?」
「何って……ご飯食べてる」
「そうじゃない。愛称呼ばれなくなって寂しがるようなヤツが、何でわざわざひとり旅なんかしてるんだって話だよ」
「蒸し返さないで! ……どうしても行かなくちゃいけない場所があるのよ」
「愛称を犠牲にしてまで?」
「からかってるでしょ!」
「まぁ、否定はしないが……。旅慣れしてないお前が、そこまでして行きたい場所っていうのはどこなんだろうなって思っただけだよ」
「魔界跡よ」
「そうか。魔界…………は?」
さっきまでリシュレナをからかって笑っていたカイルの口が、呆れたようにぽかんと開かれる。体はまるで石化したみたいに硬直して、青い右目は信じられないものを見るような目つきでリシュレナを凝視していた。
「魔界跡、だと……!? お前、あそこがどんな場所かわかってて言ってるのか!?」
「どうしたのよ、急に。私だってあそこが危険な場所くらいわかってるわよ」
「わかってない! あそこに渦巻く闇の濃さは、人の頭で想像できるような生易しいものなんかじゃない。行ったが最後、ロアと同じ目に遭うぞ!」
カイルの耳には、まだあの時のロアの悲鳴がこびり付いている。瞼を閉じれば、灰色の空に散る鮮血の色が生々しくよみがえるのだ。
ロアの翼を貫いた闇の力。触れたそばから抜き取れていく命の輝き。魔界跡に満ちる空気でさえ、命あるものが持つあたたかい熱を求めて生贄を欲しているかのようだった。
ロアと一緒なら魔界跡にも挑めるかもしれないと、自身の力を驕ったのはカイルだ。だが一度でもあの闇を目にした者ならわかる。
魔界跡ヘルズゲート。あの場所に、命あるものは誰も近付けない。
「ロアと同じって……もしかしてカイルたちは魔界跡に?」
「……あぁ。ロアの翼を貫いたのは魔界跡の闇だ。あそこに渦巻く魔力の壁は、命あるものすべてを拒む。時間魔法だか何だか知らないが、いくらお前でも中に入ることはできないぞ」
「カイル!」
警告したつもりが、なぜかリシュレナは食い入るように腕を掴んできた。あまりに顔を近付けてくるので、カイルの方が驚いて背を仰け反らせてしまう。
「お願い! 私を魔界跡まで連れて行ってくれない?」
「はぁ!? お前、人の話聞いてたのかよ!」
「何も入口までじゃなくていいの。近くまで連れて行ってもらえたら、あとは私ひとりで大丈夫だから」
「大丈夫なわけあるか! 魔界跡だぞ!? 死ぬ気か!」
「死なないわ!」
互いの声がぶつかり合う。どちらも退かない。退けないわけがある。
リシュレナは夢の声の正体を知るために。カイルは魔界跡の恐怖を、身をもって経験している。そんな場所へ出会ったばかりとはいえ、女ひとりを置いてくるなどできるはずもない。
「二人とも落ち着け。互いを知らぬまま衝突しても、何も解決しまい」
ロアが翼をかすかに動かして、二人の熱を冷ますように風を起こした。ふわりと優しい流れにリシュレナの髪が揺れ、うなじを少し冷たい風が撫でていく。
「知ったところで同じだ。俺は魔界跡なんか行かない。あんなとこ、二度とごめんだ」
ロアの風に若干気持ちの落ち着いたリシュレナとは反対に、カイルは少しの譲歩も見せないまま最後はぷいっと顔を逸らしてしまった。代わりにロアが「すまない」と謝るものだから、リシュレナは喉まで出かかっていた文句を慌てて呑み込んだ。
「知っての通り、私たちは魔界跡に苦い思い出がある。できれば私もあまり近寄りたくはないのだが……。それでも行けと願うなら、それは私たちに再び危険を犯せと言うようなものだ」
「だから近くで降ろしてくれればいいの。お願い、ロア」
「そうして危険の中へ進むレナを、私たちに見捨てろと? 私もカイルも、そこまで薄情ではない。魔界跡まで連れて行くことは簡単だ。しかし私たちはレナを見捨てる覚悟がない。そう言うことだろう? カイル」
急に話を振られて、それまで顔を背けていたカイルが慌ててロアを振り返った。心なしか顔が赤いのは、ロアの言葉が的を射ていたからだろうか。ロアを一度だけ睨みつけただけで特に反論することもなく、カイルはまたふて腐れたようにリシュレナから目を逸らした。
魔界跡へ連れて行ってもらえるだけでいいと、本気でそう思っていたのだ。けれどもロアの言葉を反芻しながら、リシュレナは自分の願いがいかに浅はかで自分勝手なものだったことを思い知らされる。
魔界跡は世界でもっとも危険な場所だ。そんなところへ連れていって、あとは置き去りにしてくれて構わないと言ったリシュレナの願いは、裏を返せば死ににいくから連れていけと言っているようなものだ。
乱暴に見えても、カイルはきっと人に優しくする術を知っている。それはカイルと共にいるロアの澄んだ瞳を見ればわかることだ。
「……でも、私」
「なぜ行きたい」
言葉を遮って、カイルが聞く。視線を向けた先に真剣な眼差しのカイルを見て、今度はリシュレナの方が躊躇いがちに俯いた。
無謀を承知で願い出るのなら、それ相応の理由は示さなければならない。毎夜リシュレナを魔界跡へ呼ぶ、あの不気味な声のことを。
「……夢を、見るの。黒い影の夢。冷たく切ない声で、私を……魔界跡へ呼んでいるの。その声の主が誰なのか、ちゃんと確かめないといけないような気がして」
違う。確かめたいのだ。
時間魔法を修得した頃から見続ける夢の声が、月の厄災で滅びたはずの男なのかどうか。そして彼がリシュレナに、何を求めているのかを。
「夢の声は……魔界王ヴァレスかも、しれない」
名を告げるだけで、場の空気が凍り付く。
カイルもロアもその先に続く言葉を見つけられず、辺りには重苦しい静寂だけがねっとりとした泥水のように漂うばかりだった。
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